"嫉妬に苦しむ"という感情の正体
新人マンガ家と話していると、嫉妬に苦しむといった相談を受けることがある。月に2回、水曜にYouTubeで生配信をしているのだけど、そこ相談が来た。
SNSでマンガが拡散される時代。同じような立ち位置で切磋琢磨していると思っていた相手の作品が、瞬く間に多くの人に読まれ、フォロワーが爆発的に増えたり、メディアでもてはやされたりする。
そうした姿に見て、嫉妬はよくないと思いつつ、「羨ましい」とか「なぜ自分はそうならないのか」といった感情が芽生えてしまうという話だ。場合によっては、作品づくりに身が入らなくなることもあると言う。
嫉妬という感情が悪いものだとは思わない。嫉妬によって創作意欲が沸き立ち、その結果、名作が生まれたという話はよくあることだ。
ただ、他人への嫉妬からではなく、創作する喜びから作品を描く方が長続きするのではと、ぼくは考えている。
ぼく自身について顧みると、嫉妬を全く感じないわけではない。
でも、嫉妬が苦しくて、行動できないと感じた覚えはない。
この違いは何なのだろうと、最近考えていた。
例えば、色々と考え事が多い時に猫を見ると、「のんびりと日々を過ごすことができて、いいなぁ」と思うことがある。鳥にしても、自由に空を飛べて羨ましいと思う時がある。
でも、猫や鳥に嫉妬はしない。それは自分とは違う存在だと、明確にわかりきっているからだ。
極端な例と思われるかもしれないが、相手が自分とは全く違う存在という前提に立てば、羨ましいという気持ちこそあれど、嫉妬で苦しむことはない。
言い換えると、嫉妬の根底には、相手は自分と同質の存在という考えが潜んでいるように思う。同じ新人マンガなのに、同じ場所で学んでいたのに。こういった前提が嫉妬を生むのではないか。
創作をしていると、世の中に同じ人間なんて、一人もいないことに気づく。
それぞれのキャラクターは、それぞれに事情や悩みを抱えていて、そこに命を吹き込んでいくのが作家の仕事になる。そうでないと、キャラクターが記号的になってしまう。
他者性を尊重し、自分とは違う価値観が存在することを、作品を通じて読者に届ける。それが創作であるという前提に立つと、他人を嫉妬する気持ちも和らいでいくのではないかだろうか。
嫉妬について考えていくと、この対談で、若新さんと「あいまい」について話していたことを思い出す。
若新さんは、自分をひとつのカテゴリーやコミュニティに収めてしまうと、その中で永遠に他人と自分を比べてしまいそうなので、あえて複数に所属しているという。自分をよくわからない「あいまいな存在」にして、自分も他人も評価できない状態にすることで、評価に囚われない状態にしている。
ぼくも、自分の職業は何かと問われると、よくわからないところがある。マンガ編集者であるけど、ベンチャーの経営もやっているし、コミュニティを主催したり、最近では糸島を拠点にする財団の運営にも関わっている。
でも、よくよく考えると、どんな編集者もマンガ家も、それぞれ様々なことを並行して行っている。働きながらマンガを描いている人や、子育てや介護をしながらマンガを描いている人もいる。
そうした他者への解像度を高めていくと、他者と自分を比べることがなくなる。自然と、嫉妬の感情も消えていく。
一方で、創作においては、他者を他者として完全に割り切るのではなく、異なる考えや背景をもつ人たちが通じあう、共感しあえる瞬間を模索することも大切だ。
以前、『潜む声に耳を澄ませる』というnoteにも書いたが、人と人とは、わかりあうことなんてできない。それでも、わかりあいたいともがく。そうした人間の姿を描いている作品に、ぼくは心を動かされる。
他者性を尊重しながらも、他者と他者が同じであり、つながる瞬間を探す。
この矛盾するようなものの間で、揺れ動き続けるのが、創作者にとって大切なことなのかもしれない。
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コルク佐渡島の『好きのおすそわけ』
『宇宙兄弟』『ドラゴン桜』などのマンガ・小説の編集者でありながら、ベンチャー起業の経営者でもあり、3人の息子の父親でもあるコルク代表・佐渡…
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