どんな世界でも、「やりすぎる」は体現できる
コルクでは、行動指針のひとつに「やりすぎる」を掲げている。
新人時代は、とにかく「スピード」をやりすぎる。スピードが早まってくると、「量」をこなせるようになる。スピードに慣れ、長時間労働でなくても量ができるようなると、「質」を追求する余裕が生まれる。
スピード、量、質。
この順番で「やりすぎる」を意識していくのが、自分を成長させていくうえで一番いいのではないか。そうした仮説を持っていることを、『「若いうちは、量をこなすべき」は本当か?』というnoteで書いた。
では、質を「やりすぎる」とは何なのか。
それは、自分の持ってる「ものさし」を明確にしていくことだ。
自分の中で理想系とする基準があり、それを満たすために、または超えるために試行錯誤を重ねていく。周囲の人たちは「もう充分なんじゃないか」と思えても、本人からすると物足りなくて、手を止めることができない。
そうした姿は周りから見ると「夢中」になっているように映る。それが質を「やりすぎる」だ。「こだわりがすごい」と言われるような人の多くは、夢中になってる。
裏を返すと、自分にとっての理想系が明確でないと、「やりすぎる」は生まれない。どういったものを自分は美しいと思っているのか。どういったものに自分は気持ち悪さを感じるのか。
自身の「ものさし」への解像度が高いこと。
これが、質を「やりすぎる」ための絶対的な前提条件だ。
先日、経営者仲間と一緒に金沢を訪問したのだが、まさに「やりすぎる」を体現している人を見つけた。
それは『天ぷら小泉』の大将だ。
せっかく金沢に来たのだから、金沢の美食を味わいたいと思い、『天ぷら小泉』に足を運んだ。コースは全ておまかせで、大将が厳選した食材を使った料理が出てくるのだが、そのどれもが素晴らしかった。
そして、料理の味もさることながら、料理をする大将の姿にすごく惹かれるものがあった。一つひとつの料理を実に楽しそうにつくっていて、「クリエイターとして、こういう風に創作と向き合えたら幸せだろうな」と感じた。
そして、料理を食べ終わった後に、大将と少し話をさせてもらったのだが、大将の天ぷらへの解像度の高さに驚いた。
天ぷらは、ものすごくシンプルな料理だ。だが、シンプルな故に、うまく作るのはすごく難しい。例えば、高級店で出す天ぷらを揚げるには、10年はかかるとも言われている。
食材を衣でコーティングし、余計な水分を外に逃がしながら、衣の中で包み蒸すことで、素材の香りや旨味を凝縮する。そのため、一流の料理人たちの間では、天ぷらは「蒸し料理」だと言われてもいる。それくらい、天ぷらの世界は奥が深いことを、ぼくも以前から知っていた。
だが、大将の話を聞くと、ぼくが想像していた数百倍も奥深いと感じた。
仕入れる食材は、季節によって変わるし、天候などの状態によっても日々変わっていく。同じ食材を仕入れたとしても、個体差が当然存在する。そうした変数がある中で、どう調理すると素材がもっている魅力を最大限引き出せるか。素材ひとつごとに勝負を行っているのだ。
素材の切り方、衣の作り方、油の温度、油に素材を入れる時の高さや角度。素材を細かく観察しながら、ミリ単位のこだわりを積み重ねていく。そうした一つひとつの勝負が最高に楽しいと大将は言う。
大将の話を聞いて、まるでプロ野球のピッチャーのようだと思った。どの球を、どのタイミングで、どこに投げるか。それぞれのバッターの特徴を観察しながら、緻密な計算を立て、一人ひとりと真剣勝負をしていく。
一球入魂。それを、天ぷらの世界でやっている。
自分の「ものさし」への解像度が高まっていくと、他人との勝負ではなく、自分との勝負になってくる。他人に言われたからやり続けるのではなく、その基準を満たしていないと、気持ち悪さを感じてしまうからだ。
シンプルに見えるものの中にも、変数がある場所を見出し、仮説検証を永遠に繰り返す。そして、その探求が楽しいと心から感じられる。そうした状態が「やりすぎる」で目指したい姿だ。
シンプルの極みとも言える天ぷらの世界で、「やりすぎる」を体現する大将の姿から、解像度を高める大切さを改めて実感した。
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コルク佐渡島の『好きのおすそわけ』
『宇宙兄弟』『ドラゴン桜』などのマンガ・小説の編集者でありながら、ベンチャー起業の経営者でもあり、3人の息子の父親でもあるコルク代表・佐渡…
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