自分を知る手掛かりとして、物語を読み返す
ぼくのnoteでは「自分を知る」ことの重要性を繰り返し書いてきた。
何に喜びや安心を感じ、何にストレスや不安を感じるか。それは人によって全く異なる。だから、はじめから万人にとって「居心地のいい居場所」なんてものは存在しない。
自分がいる場所を「居心地のいい居場所」にしていくには、「自分にとって“居心地がいい”とは何か」を知る必要がある。
そして、それぞれが自分の居心地について理解し、お互いに共有できるようになれば、居心地のいい時間を増やしていける。
40歳を迎えた頃から、できるだけ多くの場所で「居心地よく」感じられるように、より自分の内面に目を向けようになった。コーチングであったり、日々の振り返りであったり、瞑想やヨガもその一環だ。
中でも、自分を知るのに、最も有効的だと思ったことがある。
それは、過去に自分が影響を受けた作品を改めて読み返してみることだ。
数年前から、noteのメンバーシップ機能を使って『文学サークル』を運営していて、月に1回の読書会を行っている。読書会で取り扱う本の選書は、ぼくが決める時もあれば、メンバーからの推薦で決まる時もある。
読書会でじっくりと語れる本を選ぼうとしたら、ぼくの人生に影響を与えた本になる。そのような本を読み返し、みんなで話し合いをすると思わぬ発見の連続だ。
以前投稿した『40歳を超えると、"原点"に触れたくなる?』というnoteでは、『ゲド戦記』を取り上げた際の話について書いた。
そして今月、文学サークルの読書会を通じて、過去に自分が影響を受けた作品を読み返すことの価値を改めて感じた。
今月選んだ本は、平野啓一郎の『決壊』だ。
この『決壊』が単行本として発表されたのは2008年。ぼくにとって、平野作品との出会いは、この作品がきっかけだった。
この作品を読んで、まず感じたことは、主人公と自分の思考回路がすごく似ていると強烈に感じたことだ。様々な小説やマンガを読んできた中で、自分と最も似ていると思った。
下記は『決壊』のネタバレを含む。
物語のなかで、主人公は自分の弟をバラバラ殺人した犯人だと疑われてしまう。実際には犯人ではないのだが、マスコミや警察からそうだと疑われて、どんどん追い詰められていく。
自分と思考回路が似ているキャラクターが、そういう風に追い詰められていく中で、どのような行動を選択し、結末を迎えるのか。彼の選択や行動は、ぼくが生きていくうえで参考となるだろうと期待していた。どうやってこの窮地から精神的に抜け出すのか。
だが、最後は自殺という結末だった。
ものすごく衝撃を受けたと同時に、この作品を書いている平野さんは、どのようにして精神の安定を保っているのかを知りたくなった。
そして平野さんへ連絡を取り、そこから一緒に仕事をする関係へと変わっていった。
それから10年以上が経ち、今回、久しぶりに『決壊』をじっくりと読み直してみたわけだが、自分の中に大きな変化が起きていることを感じた。
主人公と自分が似ている。でも、全く同じとは感じなくなっていた。
自分が変わったのだろう。過去の自分と今の自分の差は、どこにあるのだろう?
この『決壊』の主人公は「崇」という名前だ。
エリート官僚の卵である崇は、コミュニケーション能力が高く、仕事も恋愛もそつなくこなしている。だが、結局は「いろいろな自分を巧みに使い分けているだけ」という認識があって、そのせいで空虚感を抱いている。
「誰かと一緒にいても、すごく孤独」
そうした感情を当時のぼくも抱いていた。『WE ARE LONELY,BUT NOT ALONE.』という本にも書いたけど、ぼくは幼少期から「孤独」を感じていた。それは、周りに人がいなかったからではない。遊ぶ仲間はたくさんいて、会話は溢れていた。
では、何に孤独を感じていたのかというと、それは「言葉」が通じ合っていないという感覚だ。
ぼくは、お互いの解釈が明らかに違っているように見える人同士が「そうですね」「わかる、わかる」と同意し合っている様子を見ると、ものすごく気になってしまう。なぜ理解がすれ違っているのに、「そうですね」と声をかけ合うのか。
多くの人にとって、会話とは猿の毛づくろいのようなもので、仲良くなるための手段だ。それに、ぼくは違和感があり、「ぼくが話しかけた言葉は、誰にも届かないんだ」という感覚があった。
社会人として世に出て、仕事にのめり込んで行くと、そうした孤独感は薄れていた。仕事に夢中になることで、そうしたことを考える暇がなくなる。だけど、崇というキャラクターに触れたことで、自分の中にあった孤独感を改めて思い出したのだ。それで似てると感じた。
でも、現在の自分は「崇と似ていない」と感じている。
そういう風に自分の内面が変化した理由として、一番大きいのは「分人主義」の概念に出会ったことだ。
そもそも、平野さんが、個人とは異なる新しい概念が必要だと感じたのは、この『決壊』を書いたことにある。崇のような人間が生きていくには、どういう風に自己を捉えるといいのか。そうした問いと向き合うなかで、「分人」の概念が育っていった。崇は、自分をうまく使い分けて、社会を騙しているのではない。それが崇であり、すべての人がそうなのだ。
分人とは、対人関係ごとや環境ごとに分化した、異なる人格のことだ。人間は、幾つもの異なる「分人」をもって生きていて、それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉えていく。
自分の全てを肯定するのは難しいが、「この人(達)といる時の自分は好きだ」など、「これをやっている時の自分は好きだ」など、分人単位であれば、肯定できる自分を見つけられる。そして、好きな分人を見つけることができたら、そこを足場に、好きな分人を増やしていく。
分人主義の考えに出会ってから、他者との関係の捉え方がガラッと変わった。「わかりあえているかどうか?」ではなく、「その人と一緒にいる時の自分は好きか?」という視点で考えるようになったのだ。
自分の中に、好きな分人があると気づくだけで、世界の見え方は変わってくる。好きな分人でいられる時間を増やしたいと思えるし、好きな分人を増やすには、どうすればいいのかを考えるようになった。
どういう分人が好きかを考えるには、自分の内面と向き合っていかないといけない。それは、冒頭で話をした「自分を知る」ことであり、「自分の居心地」について考えることにもつながる。
そんな風に思考が変わっていく中で、以前は感じていた孤独感や虚無感が消え去っていったのだろう。好きな分人を幾つも持つことで、社会の中に自分の居場所がちゃんとあると感じることができている。
過去の自分が影響を受けた作品を読み返すことで、『ゲド戦記』のように、自分のありたい姿を再認識することもある。でも、今回の『決壊』のように、内面の変化を明確に感じ取ることもできる。
物語に登場するキャラクターに共感できるかどうかという感情に嘘をつくことはできない。もし、昔は共感できていたのに、今はそうではないなら、自分の内面に確実に変化が起きている証拠だ。
そして、それは「自分を知る」ための手掛かりになる。
自分が影響を受けたと感じる作品を、人生の節目節目で読み返していくのは、すごく意味のある行為だと感じた。
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コルク佐渡島の『好きのおすそわけ』
『宇宙兄弟』『ドラゴン桜』などのマンガ・小説の編集者でありながら、ベンチャー起業の経営者でもあり、3人の息子の父親でもあるコルク代表・佐渡…
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