「才能」と「能力」を分けて考える
「才能」とは果たして何だろうか。
編集者とは、新しい才能を発掘し、その才能が世の中に羽ばたく手伝いをする職業だ。才能取扱業と言ってもいいかもしれない。だからこそ、プロスポーツチームのスカウトのように才能を見極める力が重要であり、それをどう養っていくかを長年考えて続けてきた。
新人作家の才能を見極めるには、ぼく常々、観察力だと言ってきた。キャラクターの魅力、ストーリーテリングの巧妙さ、絵のテクニックなど、様々な能力が必要だが、その全てを伸ばすのに観察力が基礎となる。
そんな風に「才能」という概念と向き合ってきたのだが、先日のnoteでも紹介した『わかり方の探究 思索と行動の原点』という本に、能力について書いてる部分があり、才能について考え直すきっかけとなった。
そもそも、能力とはなんだろう?才能と能力の差はなんだろう。
最近のぼくの一番の友達は、こんな風に言う。
『わかり方の探究 思索と行動の原点』を読んでいてハッとしたのは、能力というのが、かなり新しい概念ということだ。
力という言葉がついて、測定できるものとして捉えている。人の状態を測定して、役立つかどうかを判定するというのは、すごく資本主義的な行為だ。
ぼくは、編集者は才能取扱業だと自認していながら、才能と能力を曖昧な使い方をしているところがあった。能力は、AIで補完できるようになる可能性がある。一方、才能は、補完できないものだ。AIに補完できない能を持っている人を見抜き、サポートできてこそ、編集者だ。
では才能は、どうやって見抜くのか。そのヒントも『わかり方の探究 思索と行動の原点』にあった。
「外側から見る」と「内側から見る」という見方だ。外側から見えるものが、「力」と呼べるようなものだ。時間をかけて、努力をすると身につけることができる力。
内側から見るとは、想像力を持って、その人の存在を感じることだ。そうやって、その人を感じると、全ての人が才能を持っているように感じてしまう。
全ての人が持っているなら、才能とは一体なんだろう?
そんな風に考えていくと、ぼくの中で絶対的なイメージを持っていた才能という概念が瓦解していった。才能がある人は、どんなことがあっても、成功するとぼくは考えていた。
でも、才能は、そんなに絶対的なものではない。
才能は環境に依存的なもので、才能と環境が相互作用する中で、才能は花開いていく。つまり、編集行為とは、才能に働きかけることではなく、才能が花開くように、環境に働きかけることではないか?
才能に働きかける場合は、扱える才能のタイプが限定的だ。一方、環境に働きかけることができるようになると、全ての人の才能を花開かせる可能性があるのではないか。
編集という行為を突き詰めていくと、教育とも、子育てとも、経営とも似ているように感じる。全ての職種は、突き詰めると同じということなのかもしれない。
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コルク佐渡島の『好きのおすそわけ』
『宇宙兄弟』『ドラゴン桜』などのマンガ・小説の編集者でありながら、ベンチャー起業の経営者でもあり、3人の息子の父親でもあるコルク代表・佐渡…
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