「自分は何者であるか」を導く本質的な問い
「私はどこから来たのか、私は何者か、私はどこへ行くのか」
昨年末に1年の振り返りとして、このタイトルのnoteを投稿した。
ぼくは昔から「自分は何者なのだろう?」と自分に問い続けてきた。そして、「何者かにならなくてはいけない」と自分で自分で駆り立ててきた。
灘に行っても、東大に行っても、講談社に行っても、起業しても、ぼくは自分が何者かわからなかった。プロフィールに書く実績や肩書きは、手に入る。でも、自分は何者かであるという実感は手に入らない。そのなかで、昨年ころから「何者かになろう」と自分を駆り立てなくなった。
そして、さらに気づきを与えてくれる本と出会った。タイトルは『わかり方の探究 思索と行動の原点』だ。
そもそも、「できる」と「わかる」は同じことだろうか、それとも全く別のことだろうか。この本では、この問いから議論が展開されていく。
「できるようになる」はKnowing Howに属する知識であり、「わかるようになる」はKnowing Thatに属する知識だ。前者は行為による目標の達成が志向されているのに対し、後者では「わかっている」という心的状態が志向される。前者は「効率的に」「見事に」といった風に外から観察される特徴づけで言い表せるが、後者は原則的に本人しかわからない。
ただ、「できる」と「わかる」を、このように二分して考える見方自体が実は極めて人工的ではないかと著者は指摘する。
例えば、宮本武蔵のように「剣の道を極める」ための修行の途中で、色々と悟ったり、開眼したりするプロセスは、「できるようになる」のか「わかるようになる」のか。東洋思想においては、「できる」と「わかる」との間を、明確な一線を画して区別する考え方はもともとなかった。
だが、現在の学校教育では、「できる」と「わかる」は明確に分離されている。「わかっていない」にも関わらず、テストの点だけは高いという学生の存在。「わからせよう」と努めると、授業が進まないので、「要するにどういうことができればよいか」をはじめから目標とした授業。
このように「わかる」や「わからせる」が置き去りにされたり、歪められることで、「わかる」という人間の営みが何であったかを多くの人がわからなくなっているのではないか。そう著者は警鐘を鳴らしている。
「わかる」ということを僕は全く理解していなかった。「おぼえる」「みえる」という概念に対してすら、自分は雑に理解していたのだと気づいた。
ぼくがこの本を読んで深く共感したのは、筆者の人間観だ。
人は生まれ落ちた瞬間から息を引き取るまで、いつも「わからない」状態から「わかる」状態へむけての過渡的状態のままでいて、「さらにわかろう」と絶えず活動し続けている。
同時に、人は生まれた時から、己を取り巻く文化になじみ、その文化の発展と新しい文化的価値の創造へ参加しようとしている。
このふたつは何の関係もないように見えて、実は表裏一体だと筆者は主張する。すなわち、人は生まれながら、自分を取り巻く世界について「わかろうとする」ことによって、文化に参加しようとしているのだ。
「わかろうとする」 とは、「わかっている」でもないし、「わからない」でもない。「わかろう」とする営みはどこまでも続いていく。であれば、これまでに自分は何を「わかろう」としてきたのか。そして、これから先の自分は何を「わかろう」としていきたいのか。
この足取りを丁寧に追うことが、「自分は何者か」を考えるうえでの本質的な問いになるのではないか。「わかる」の積み重ねこそが、その人であるという人間観にすごく共感した。
「自分は何者か」について考える時、「自分の夢は何か」とか、「自分の好きなものは何か」とった視点で考える人は多いと思う。ぼく自身、こうした視点で考えてきたこともあるが、どうもしっくりとこなかった。だが、ようやく深く腹落ちする指針が見つかったように感じている。
自分は何を「わかろう」としている人間なのか。今、自分は何を「わかりたい」のか。この問いを自問すると、自分の見え方が変わってくると感じた。
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コルク佐渡島の『好きのおすそわけ』
『宇宙兄弟』『ドラゴン桜』などのマンガ・小説の編集者でありながら、ベンチャー起業の経営者でもあり、3人の息子の父親でもあるコルク代表・佐渡…
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