強要された我慢で、人は育たない。 「叱る」をどう手放すか。
「人を育てるとは、期待しないこと」
去年、このタイトルのnoteを書いた。期待を手放し、相手を信頼し、ただただ見守る。子育てにおいても、経営者としても、「見守る」を徹底していきたいと心がけている。
ただ、全てが全て、見守ったほうがいいかというと悩ましい。
ぼくが特に悩んでいるのは、子育てにおいて、子ども達に多少の我慢を覚えさせたほうがいいのではないかということだ。
基本的に、ぼくは子どもたちの自主性を重んじたいと思っている。それによって、子どもたちが失敗を経験したり、痛い思いをするかもしれないが、そのほうが学びになると思っている。子どもたちが我が儘のようなことを言ってきたとしても、自分の欲望を素直に吐き出すことができている証拠なので、それを咎めるつもりはない。
ただ、あまりにも自分の欲望の主張が強すぎると、社会に出た時に上手くやっていけるか不安に思う時もある。ぼくの実家からも、叱るところはしっかりと叱って、躾けたほうがいいと言われたりもする。
子どもたちを叱って、我慢を覚えさせたほうがいいのか。
そんな風に考えていたぼくに内省を促してくれたのが『〈叱る依存〉がとまらない』という本だ。
叱らないと子どもがダメになる。理不尽なことに耐える忍耐力も教育として必要。この本を読むと、こういった考えがいかに誤った認識なのかが、よくわかる。特に印象的だったのは、以下の部分だ。
自分で選んだ我慢と、他者から強要された我慢は、まったく別の体験なのだ。ぼくが子どもたちに身につけてもらいたいと思っていた我慢は、目的のための自発的な我慢であり、叱って我慢させても何も意味がない。
また、次の箇所も、非常に納得感があった。
一定の苦しみが成長につながると思っていたけど、それは完全に妄想だった。我慢することも、苦しみを乗り越えることも、自分で選択したうえでの経験であれば、すごく価値になる。だが、他人から与えられている限りは、ストレスになるだけだ。本人にとって、何ひとついいことがない。
それでも、なぜ人は叱ってしまうのか。
それは、叱るという行為に依存性があるからだ。
叱る行為は、「叱ることのできる自分はえらい」という自己効力感を叱る側にもたらす。他人を真剣に叱れるほど、自分は相手のことを想っていると悦に浸ってしまい、それが心理的な報酬になる。
ぼく自身のことを振り返ってみると、コルクを創業してはじめの頃は、社員のことをよく叱っていた。そして、それは相手のためを想ってのことだと信じていた。その上、叱るという行為に自分も依存していたのかもしれない。
本当に相手のことを想うなら、見守るを徹底していく。改めて、そう決心した。
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コルク佐渡島の『好きのおすそわけ』
『宇宙兄弟』『ドラゴン桜』などのマンガ・小説の編集者でありながら、ベンチャー起業の経営者でもあり、3人の息子の父親でもあるコルク代表・佐渡…
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