物語を語ることによって、自分の経験を客観化する
ぼくにとって、読書とは「作者との対話」だ。
「なぜこの一文を書いたんだろう?」「あえてこの言葉を選んだのはどういう理由だろう?」と考えながら、一文一文を読んでいると、頭のなかで作者と会話してるような気分になる。
ぼくは、作者が書いている内容に共感してではなく、それを書こうとしている作者の姿勢や生き方に共感して、その作者を好きになるのだろう。
村上春樹の『風の歌を聴け』の冒頭に、こんな文章がある。
自分の中で折り合いをつけられていない経験や感情を、物語として描いてみることで、向き合おうと試みる。そんな風に、生きることと創作がリンクしているように感じられる作家が、ぼくが好きになる作家なのだろう。
そういう意味で、ぼくが最近注目している作家がいる。
コラムニストであり、エッセイマンガ家でもある田房永子さんだ。
ぼくがはじめて読んだ田房さんの本は『キレる私をやめたい ~夫をグーで殴る妻をやめるまで~』というコミックエッセイだ。
この本を読んだきっかけは、ぼく自身の子育ての悩みだ。子育てをする中でぼくも子どももキレるような状態になってしまうことがあり、「なぜ、キレてしまうのか?」を考えるうえで参考になりそうと思い、この本を読み出した。
家の外では「怒っている姿を想像できない」と言われるようなタイプの人なのに、自宅に戻ると旦那や子どもに対して些細なことでキレてしまう。そして、冷静になった後にいつも自己嫌悪に陥ってしまう。そんな状態の田房さんが、どう自分と向き合っていったのかが綴られていく。
この他にも、田房さんの作品は、自分のトラウマをテーマにしたものが多い。
幼い頃から母からの過干渉に悩み、母親との確執と葛藤を描いたコミックエッセイ『母がしんどい』。 男性嫌悪をもったまま、男の子の母親となり、自らの男性観を矯正すべく奮闘した記録を綴るエッセイ『男の子の育て方を真剣に考えてたら、夫とのセックスが週3回になりました』。
どの作品も、田房さんの生々しい感情が描かれていて読み応えがある。
だが、それと同時に、「なぜ、当時の自分はそういう感情を抱いてしまったのか?」という心の動きを客観的に分析していて、そのメカニズムをわかりやすくコミックエッセイやエッセイの形で表現してくれている。
おそらく、田房さんにとって、エッセイやマンガを描くことは、自分と向き合うための手段なのではないだろうか。そして、自分の感情や気づきを読者におすそ分けしたいと思って、作品と向き合っているのではないか。
作品を描くことで、自分をメタ認知し、自分の思考を整理していく。そんな風に、生きることと創作がセットになっているように感じる。
最新作『喫茶 行動と人格』も、実に田房さんらしい作品だった。
この作品は、田房さんの体験談を綴ったものではない。架空の喫茶店を舞台に、お店に来る客たちの会話を盗み聞きし、その内容について店員や常連たちがが議論を深めていく。
議論される問題は様々なのだが、共通しているのは「なぜ人は他者を誤解をし、イザコザを起こしてしまうのか?」という問いだ。
その答えは、この本のタイトルにあるように、「行動」と「人格」を一緒くたに考えてしまうことにある。相手の行動を主観的に解釈してしまい、相手の人格を勝手に決めつけてしまうこと。それがイザコザを生んでしまう。
事実と解釈を切り分けて考える。
その大切さを説いてくれる本なのだが、様々な具体的なエピソードをもとに、コミックエッセイならではの表現で紹介してくれるので、すごく理解しやすい。こんなに抽象的な内容を、コミックエッセイという形式で、ここまでわかりやすく表現できるなんてスゴいと思った。
作品づくりを通じて、自分の苦しかった経験を客観視し、それを表現に落とし込んできた田房さんならではの作品だと感じる。
村上春樹が翻訳しているティム・オブライエンの『本当の戦争の話をしよう』の中の「覚え書」にこんな文章がある。
文章を書いたり、物語を語ることは、自分の経験を客観化することへ繋がる。その試みの中で、その人にしか描けない物語が生まれていくのだろう。
こういう姿勢で創作と向き合っている人を、編集者としてぼくは支えていきたいのだなと、改めてそう感じた。
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コルク佐渡島の『好きのおすそわけ』
『宇宙兄弟』『ドラゴン桜』などのマンガ・小説の編集者でありながら、ベンチャー起業の経営者でもあり、3人の息子の父親でもあるコルク代表・佐渡…
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