人を成熟させる考え方、『ある男』の三勝四敗主義。
平野啓一郎の小説『ある男』の映画が、11月18日(金)から公開される。
監督は『蜜蜂と遠雷』『愚行録』で知られる石川慶監督。担当編集者として企画から携わってきたけど、完成した映画を見て、本当に素晴らしい作品になっていると感じた。
この『ある男』とは、ある男の過去に迫っていく物語だ。
あらすじを簡単に説明すると、不慮の事故で夫を失った妻が、戸籍に登録されている人物と夫は別人であることを知る。愛したはずの夫は何者だったのか。身元調査の依頼を受けた主人公である弁護士の城戸は、本当の名前すらわからない「ある男」について調べるなか、なぜ彼が他人として生きることになったのかの真相にたどり着く。
この作品は、ある男の正体に迫っていくサスペンス的な描き方をされているが、実に平野さんらしい純文学作品だ。
『ある男』の前作にあたる『マチネの終わりに』では、こんな一節がある。
過去の出来事の評価を決めるのは、いつでも現在の自分の主観だ。つまり、全ての物事の評価は更新可能なのだ。
何か新しい物事を始ようと思う時に、失敗を恐れて、躊躇する人は多い。それは自分が起こした出来事に失敗という評価が固まると思うから、怖くなるのだ。評価とは常に更新可能だと思うと、怖さは消える。『マチネの終わりに』で語られる「未来は常に過去を変えている」という考え方は、ぼくに大きく影響を与えてくれた。
一方、どうやっても評価を変えることができない過去を抱えていて、それによって生きづらさを感じている人は、どうすればいいのだろうか。
この『ある男』の登場人物である「ある男」は、そうした逃れられない過去を背負っている人物だ(彼がどんな過去を抱えているかは、作品のなかで確かめてみてほしい)。
過去の自分を捨て、他人となることで、この生きづらさから逃れたい。そうした切実な想いが、この作品では描かれている。
更に、平野さんの最新作『本心』では、アバターの姿でメタバース世界を生きる人たちが描かれている。アバターで生きるとは、現実の肉体から離れて、新しい姿の自分で生きることだ。
生きづらさを抱えている人たちが、どうすれば前を向いて、自分の人生を歩めるようになるのか。そうした問いが、平野作品の根底にはある。
ぼくが『ある男』という作品のなかで、自分の人生観に一番影響を受けたと感じるのは、主人公の城戸が惹かれていく女性が語る「三勝四敗主義」という人生のモットーだ。
人生は良いことだらけじゃないから、いつも“三勝四敗”くらいでいい。本当は“二勝四敗”くらいでもいいんだけど、目標は高く、“三勝四敗主義”で、と彼女は語る。その考えに感銘を受けた城戸は、こんな会話をする。
ぼくも城戸と同じで、この「三勝四敗主義」という考え方には、新しい視野が開けていくような感銘を覚えた。
資本主義社会だと、ほぼ全てが数値で評価される。学生であればテストの点数。会社であれば売り上げや利益。個人であれば収入や所有資産額。最近では、SNSのフォロワーも個人を測るひとつの指標になりつつある。
そして、勝ち負けというのは、スポーツの世界しかり、ビジネスの世界しかり、数値によって定められることがほとんどだ。数値が優れているほうが勝ちで、成長とは数値を高めることに等しい。
そうした資本主義社会に浸かっていると、「発展とは成長することだ」と多くの人は考えるようになってくる。でも、発展には、成長の他に「成熟」という言葉も使われる。
人生100年時代となり、「人はいつまでも学び続けなければいけない」といったことをよく耳にするが、それは「成長し続けなければいけない」という意味ではないはずだ。
身体的な変化が明らかな10代や、所得がわかりやすく伸びていく20代や30代なら、成長を追い求めていいかもしれない。でも、40代や50代を超えてから追い求めるべきは「成長」ではなく「成熟」ではないだろうか。成長するために学ぶのではなく、成熟するために学ぶ。
成熟は成長と違い、数値で図ることはできない。なぜなら、様々な要素が複雑に絡みあって、人は成熟していくからだ。
以前、『技術ではなく、技能を熟達させた先にあるもの』というnoteを書いたが、熟達者の人たちは本人も周囲も言語化できない「特別な何か」を身に纏っている。そして、その何かを得たいと思ったら、本人と長い時間を供に過ごして、探っていくしかない。
ひとつの方向に加算的に伸びていく成長と違い、成熟は多方向への変化であり、その中には矛盾を抱えるものも含まれているかもしれない。成熟とは、矛盾したものを矛盾したまま抱え、バランスをとっている状態だからだ。
成長主義を離れ、三勝四敗くらいで調度いいという態度で、世の中や人生を眺めていく。三勝四敗主義とは、人を成熟させる考え方ではないだろうか。
自分が40代を迎えたタイミングで、『ある男』という作品に出会えたことは、ものすごく幸運だったと今になって改めて感じる。
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コルク佐渡島の『好きのおすそわけ』
『宇宙兄弟』『ドラゴン桜』などのマンガ・小説の編集者でありながら、ベンチャー起業の経営者でもあり、3人の息子の父親でもあるコルク代表・佐渡…
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