執着を手放すための「お布施」という行為
仏教には「色即是空」という言葉がある。
すべての形あるもの、物質的なものは、その本質においてはどれも実体がなく、「空(くう)」であること。それゆえ、なにものにも執着する必要はないという考えだ。
この世の物事は全てが移ろう。だから「絶対」など存在しない。現在ここに確実に存在しているように思える「私」でさえ、絶対ではない。様々な物事との関係によって、そう感じられているだけだ。
こうした仏教的な考え方は、ここ数年のぼくに大きく影響を与えてきた。
現代社会では「私らしく」といったフレーズをよく耳にするが、「私らしく」を意識し過ぎることは、不自然ではないか。それよりも、自分も移り変わる世界の一部と捉えたほうが自然だし、心穏やかに過ごせる。
面白いのは、自分は世界の一部だと思い、次の世代に何を残していこうと考えると、これまでとは違った視点が浮かび上がってくることだ。自分らしくを諦めることで、新しい自分と出会い、自利と利他が同時にやってくる。
手放し、諦め、執着しない。
そうした心の有り様について考えるなかで、先日、新しい視点を得る機会があった。その気づきを与えてくれたのは、コテンの深井さんに紹介してもらった松波龍源(まつなみ りゅうげん)さんだ。
龍源さんは京都でお坊さんをしているのだが、そのあり方はものすごくユニークだ。今出川駅近くのビルに、実験寺院『寳幢寺(ほうどうじ)』というお寺を開いているのだが、そのコンセプトは「みんなのお寺にしたい」だ。
仏教の勉強や瞑想など、各自が自分のやりたいことができ、「ここがあったらいいよね」というみんなの想いで無理なく運営されていく。それがお寺の本来の姿であり、そういうあり方を表現しようとしている。
寺院の本来のあり方に戻りたいと、この寳幢寺では関わる人たちからの「寄付」だけで運営している。運営に必要なお金も、お寺に必要な資材も、寄付によって賄われている。
一般的に、お寺の主な収入源はお布施と護持費だ。お布施は葬儀や法事で檀家から受け取るもので、護持費は檀家が支払う年会費のようなもの。言ってみれば、お坊さんが行う読経や戒名や、お寺にある納骨堂やお墓を利用できるといった「見返り」を求めて、檀家はお寺にお金を支払うわけだ。
だが、寄付の場合、そうした「見返り」は発生しない。利害関係・損得の勘定・価値の交換ではなく、互いに敬意と喜びを与え合う精神が根付き、心穏やかに暮らせるようになるなずだと、龍源さんは言う。
そして、寳幢寺では、この寄付のことを「お布施」と呼んでいる。仏教における本来のお布施とは、こういうあり方ではないかというわけだ。
ぼくが面白いと感じたのは、心穏やかになるための手段としての「お布施」という発想だ。お布施は、受け取る側のためのものではなく、する側のためのものだ。
「備えあれば、憂いなし」とよく言われるが、まずは備えを万全にし、心に余裕が生まれたタイミングで、他人へのギブをはじめようと多くの人は思うだろう。だが、どこまで備えれば、憂いは消えるのだろうか。備えれば備えるほど、「あれもこれも必要」となり、いつまでも憂いは消えないのではないだろうか。
それよりも「自分には余剰かもな」と思えるものは、見返りを求めず、どんどん他人に贈っていく。余剰とは、すぐに他者に贈れるものと言えるかもしれない。お金に限らない、時間や行動も含まれる。そうしたお布施を繰り返すことで、執着する心が薄れ、色々なものが自然と手放せるようになっていく。
お布施とは、執着を手放す練習のようなものなのだ。だから、お寺はお布施をする機会を提供しているのだ。
龍源さんの話を聞き、「お布施」「余剰」という概念へのぼくの理解が増した。そして、どういう風に自分が余剰だと感じるものを、自然体で手放していくか。僕の中に、今、そこまで余剰がないかもしれない。余剰について意識していこうと思った。
一流を目指す人の「やりすぎる」
コルクの行動指針の一つは、「やりすぎる」だ。
この行動指針は、作家たちを見ていて思った。一流の人はみんな何かをやりすぎている。そして、そのやりすぎは、どれも努力じゃない。夢中だ。
我慢してやりすぎているのではなく、気がつくとやりすぎている。自分を夢中状態に持っていく方法を知ろう、という行動指針でもある。
では、作家たちは、どんな風にやりすぎていたのか。
ここから先は
コルク佐渡島の『好きのおすそわけ』
『宇宙兄弟』『ドラゴン桜』などのマンガ・小説の編集者でありながら、ベンチャー起業の経営者でもあり、3人の息子の父親でもあるコルク代表・佐渡…
購入&サポート、いつもありがとうございます!すごく嬉しいです。 サポートいただいた分を使って、僕も他の人のよかった記事にどんどんサポート返しをしています!