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人生を「旅」ではなく、「巡礼」と捉えてみる試み

「人生とは旅である」とよく言われる。でも、最近のぼくは「人生とは巡礼である」という視点で様々な物事を捉え直してみている。

発端は石川善樹との雑談だ。旅行という概念は、明治以降に生まれた比較的新しい概念であるという話を、善樹から聞いた。

調べると、観光という言葉の語源は中国の易経の言葉「観国之光」で、国の光を観る。つまり、他の国の良い点を見て学んでくるという意味らしい。幕末にアメリカと条約を結ぶための使節団が乗った船の名前が「観光丸」で、日本で観光という言葉が使われた起源だそうだ。

そもそも江戸時代においては、藩が移動を厳しく制限していたため、庶民は藩の外へ簡単に行くことはできなかった。旅行や観光の自由は明治になるまで与えられていなかったのだ。

そんな江戸時代でも唯一許されていたのが、信仰心に基づいた巡礼だ。信仰心は無下にできないということで、お伊勢参りなどの聖地への巡礼については、手形発行が認められていた。

現代でも、四国八十八カ所や西国三十三所などが巡礼として有名だが、巡礼と旅行の違いとは何か。

ひとつは、一箇所ではなく複数の箇所を巡ること。もうひとつは、巡る順番が定められていること。必ず入口があって、終わりとなる出口がある。

さらに、巡礼においては、心構えが何よりも重要とされる。

例えば、四国八十八カ所は、弘法大師こと空海が修行した八十八カ所の霊場をたどる巡礼だが、功徳を得るには、巡礼をしながら空海の想いに心を寄せることが大切と言われている。

ある種、巡礼には何かしらのテーマのようなものがあるのだ。そして、そのテーマは簡単にはわかりきらない。だからこそ、巡礼を一度終えても、巡礼を繰り返したりして、何度もそのテーマについて考えていくことになる。

入口と出口があり、テーマが存在する。そう考えると、巡礼は限りなく物語と似ている。旅行に物語性はないが、巡礼は物語性を帯びている。旅は、物理的な終わりが存在するが、巡礼はいつまでも奥には辿り着けない。繰り返されていく。

人生という物語も、映画やドラマと違って、基本的に終わりがない。振り返ってみると、大きなテーマは同じだけど、やっていることが過去と現在では少しずつ変わったり、進化していることがよくある。ぐるぐると螺旋構造の物語を描いている人は多いのではないだろうか。

そう考えると、「人生は巡礼である」と考えたほうが、しっくりきそうな気がしている。そして、自分はどんな巡礼を歩みたいのかと、どんな奥を目指そうとしてるのかと、自分に問うことで、自分をより深く理解できそうな気がする。

人生を巡礼と捉えてみる。

まだあんまり言語化できてないけど、面白い気がしている。

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