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「読む」と「書く」の往復が、自分の世界を豊かにする。 宇野常寛さんに聞く、批評の価値

コルクは「物語の力で、一人一人の世界を変える」をミッションに掲げている。

物語を創作する魅力とは、作品に触れた人の心に大きな影響を与えられることだ。マンガや小説を読むことで、「こういう風に自分もなりたい」「こういう世の中に変えていきたい」と、読者の世界を見る視点を変えることができる。

創作によって生まれた「他人の物語」は、読者が「自分の物語」を編み直す存在となりえる。僕らは物語の力を最大化するために、作品づくりにとどまらず、様々な働きかけをしていく。

そして、この「物語の力で、一人一人の世界を変える」というミッションは、宇野さんの『遅いインターネット』を読むことで、今の時代にふさわしいものだと確信が深まった。

この『遅いインターネット』への理解を深めたいと思い、僕のYoutubeチャンネルで宇野さんとの対談を行った。宇野さんは、「他人の物語」を読者が「自分の物語」へと接続していくためには、読者自身の批評行為が大切だと言う。その対談を、コルクラボのメンバーがレポート記事を作成してくれたので共有する。

<記事の書き手 = 栗原京子、編集協力 = 井手桂司

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宇野 常寛(うの・つねひろ)さん
1978年生。著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、『原子爆弾とジョーカーなき世界』(メディアファクトリー)、『静かなる革命へのブループリント:この国の未来をつくる7つの対話』(河出書房新社)、『楽器と武器だけが人を殺すことができる』(KADOKAWA/メディアファクトリー)、『資本主義こそが究極の革命である:市場から社会を変えるイノベーターたち』(KADOKAWA/PLANETS)。 共著に濱野智史との対談『希望論』(NHK出版)、石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』(太田出版)。企画・編集参加に「思想地図 vol.4」(NHK出版)、「朝日ジャーナル 日本破壊計画」(朝日新聞出版)など。

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「問い」を生むことが求められる時代へ

佐渡島:
今日は、『遅いインターネット』で書かれている内容について、どんどん聞いていこうと思うんだけど、この文章が僕は「うまいなぁ」と思った。

 60年代末の世界的な学生反乱とその挫折 ーー アメリカのベトナム反戦運動、フランスの五月革命、そして日本の全共闘運動とその挫折 ーー は、そしてその後の資本主義の勝利による(相対的に)安定した民主主義社会と豊かな消費社会の実現は、ベビーブーマー以降の世代のユースカルチャーのモードを政治的なアプローチ(革命)で「世界を変える」ことから、文化的なアプローチで世界の見え方を、つまり「内面を変える」ことに移行させた。

僕らの世代って、学生闘争に憧れたりもするけれど、もはや戦う相手がいなくて、政治に熱狂することのできない世代なんだよね。一方、現在は「マインドフルネス」みたいな動きも出てきて、実世界ではなく、自分の内面の世界を変化させることに関心が高まりつつある。

そういう時代の変化を的確に捉えた文章だよね。

宇野さん:
ありがとう。振り返ってみると、西側の先進国にとっての60年代は学生反乱の時代で、それがことごとく失敗した。その結果、みんなの関心が「政治」から「文化」へと移行していったんだよね。革命で世界は変わらないのだから、カルチャーの力で内面を変えようと。その流れが、1970年前後から20世紀の最後までの30年間は続いたわけだよ。

その時に、僕らは思春期を過ごしているから、僕らの若い頃って、若者向けの風俗やサブカルチャーについて鋭いことを言える奴が「一番頭いい」みたいな空気だったよね。

佐渡島:
うん、そうだね。

宇野さん:
ところが、21世紀に入ったくらいのタイミングで、「政治」ではなく、テクノロジーを活用した「ビジネス」で世の中は変わるという空気がシリコンバレーを中心に世界中を覆いはじめたんだよね。

つまり、70代以前、70代から90年代、21世紀初頭で、モードが3回チェンジしている

70年代以前の「政治の季節」が終わって、70代から90年代の「文化の季節」になったことは、いろんな人が言っている。でも、それが21世紀に入って「ビジネス+テクロノロジー」に置き換わったという話は、日本ではあまり言われてない。

一方、欧米ではGAFAを中心としたシリコンバレーの動きに対して、「政治を無視して、市場とテクノロジーの力で世界をどんどん変えていくやり方は、本当に正しいのか?」と疑問を呈する空気が強くなってきているんだよね。

佐渡島:
なるほど。ヨーロッパでGAFAに対する拒否感が強いと感じていたけど、そういうモードの変化の流れを見ていくと納得感があるね。

宇野さん:
そう。今、世界中の文化人や知識人はGAFA批判の流れに傾いているんだよね。それなのに、まだ日本では「モノづくりをしている人が偉い」という昭和後期のモードや、「次のGAFAを目指そう」という平成初期のモードから抜けられていないんだよね。


「イジメ大喜利」の閉じた世界から抜け出そう

宇野さん:
今、僕が危惧しているのが、現在のインターネットは人間を「考えさせない」ための道具になっていること。

かつてもっとも自由な発信の場として期待されていたインターネットは、今となっては、もっとも不自由な場となっていると思う。それも権力によるトップダウン的な監視ではなく、ユーザひとりひとりのボトムアップの同調圧力によって、息苦しくなっているんだよ。

Twitterが特に顕著だけど、今のソーシャルメディアは「イジメ大喜利」の場になってるよね。

不倫だとか、不祥事だとか、「叩いていい」というお墨付きを与える生贄を週刊誌やテレビのワイドショーが選び、みんなで一斉に石を投げはじめる。そうやって、「みんなと同じ」であることを確認したり、「自分はまともな側の、マジョリティの側の人間だ」と安心している人が多いよね。

佐渡島:
そうだね。そういうポジショントークばっかりだよね。

宇野さん:
そう。本当は「なぜ、その人がそういうことをしたのか?」や「どうやったら、その事態を防げたのか?」といった背景にある問題について議論することのほうが重要なのに。

でも、多くの人はタイムラインの潮目ばかりを気にして、YESかNOか、どちらに加担すべきかだけを判断してしまう。そのほうが簡単だからね。

具体的に対象そのものを論じようとすると、多角的な検証や背景の調査が必要だったり、他の何かと関連づけて化学反応を起こす能力が必要になる。でも、価値ある情報発信とは、そうやって対象を「読む」ことで得られたものから、自分で「問い」を設定することなんだよ。

この時代に僕らに求められているものは何かというと、既に存在している問題の、それも既に示されている選択肢に答えを出すのではなく、あらたな「問い」を生むことこそが大事で。

そして、そのために大切なのが「読む」であり「書く」なんだよね。

ある記事に出会ったときに、その賛否どちらに、どれくらいの距離で加担するかを判断するのではなく、その記事から着想して自分の手であたらしく問いを設定し、世界に存在する視点を増やすこと。それこそが、自分の内面世界をも豊かにする発信だよね。

単に「書く」ことだけを覚えてしまった人は、与えられた問いに答えることしかできない。だから、『遅いインターネット』の中では、「読む」ことと「書く」ことを往復する大切さを説いているんだよね。そして、その行為に改めて「批評」という言葉を充てたいと、僕は思っている。


多くの人は「書かされている」状態に陥っている

佐渡島:
『遅いインターネット』では、批評という行為の重要性が説かれると同時に、宇野さん自身の批評家としての矜持を感じられるよね。宇野さんは、批評家としての矜持をきちんと持ちながら、「批評とは何か」を更新し続けている数少ない批評家だと思っている。 

改めて、宇野さん自身の批評についての考えを教えてもらってもいいかな?

宇野さん:
僕は「書く」ことの重要性を説いているんだけど、多くの人は「書いている」のではなく、「書かされている」と思うんだよ。

例えば、Twitterでは、上手いことを言って自分をちょっと賢く見せる。Facebookでは、インフルエンサーをタグ付けして自分のリア充を自慢する。Instagramでは、自分の生活をちょっと華やかにもる。noteは、エモいエッセイを書く。

こういうのは実のところ、自分の意思で書いているのではなく、半分はプラットフォームの特性に合わせて、書かされている状態なんだよね。

発信する行為は、すごく気持ちいいこと。自分が発信したものに反応をもらうと、自分が世界に素手で触れている感覚を味わうことができる。でも、ほとんどの人には、プラットフォームが無意識に推奨してくるような安直のコミュニケーションをとっていることに気がついていない。

佐渡島:
なるほど。 

宇野さん:
そもそも「批評」とは、自分以外の何かについての思考なんだよね。

小説や映画についてでも構わないし、料理や家具についてでも構わない。自分の外にある対象について書くことで、自分と対象との関係性を記述する行為であり、そこから生まれた思考で、世界の見え方を変える行為なんだよね。それを繰り返すことで、自分の世界が広がっていくんだよ。

逆に、自分についてばかり書いていると、コミュニケーションが貧しくなって、いつまで経っても世界は広がらない。

だから、好きなものでも、嫌いなものでもいいから、自分の心を動かされた対象について書いてみる。このとき、「ヒト」について書くのをやめるのがコツだと思う。「ヒト」について書くとどうしても、閉じた相互評価のネットワークの中で行われている、あの大喜利みたいなゲームに巻き込まれてしまうからね。「モノ」とか「コト」とか「場所」とか、「ヒト以外のもの」について書くことによって、世界を豊かにする発信をしていってほしい。

佐渡島:
それはすごく重要だよね。例えば、本のレビューでも、ビジネス本については内容を要約したり、自分の行動の変化は文章にまとめやすい。一方、小説を読んで自分が感じた感情を文章として言語化するのは難しい。

でも、小説を読んで感じた感情について書く練習をしていけば、確実に視点が広がって、世の中の見え方が変わるよね。登場人物を自分を重ねてみることで、気づかなかった自分を発見できたり、自分だったらこの場面でどうするだろうかと「問い」と出会うことができるからね。


「自分の物語」を生きるための「他人の物語」

佐渡島:
小説といえば、『遅いインターネット』の第2章の「『他人の物語』と映像の世紀」という章に、こういう文章があるよね。

20世紀という「映像の世紀」を席巻した劇映画とは基本的に「他人の物語」への感情移入装置だった。20世紀初頭の映画の普及は、いわゆる有名人のカテゴリーを一変させた。小説家をはじめとする文筆業者の注目度が相対的に低下するその一方で、俳優、コメディアン、アスリートなど映像という新しい媒体と親和性の高い表現者たちの台頭を生んだ。19世紀が(総合)小説の世紀なら、20世紀は(劇)映画の世紀だ。20世紀の知識人は19世紀の文学を共通言語にコミュニケーションを取ったように、21世紀の知識人は20世紀の映画を共通言語としてコミュニケーションを取るだろう。

僕は小説の居場所を確保することが、ますます難しくなってきていると実感しているんだよね。

宇野さん:
うん。小説はだんだん居場所が難しくなってきていると思う。かつて人々は自分と社会とのつながりや、自分の人生を考えるために小説を読んだけど、その位置には、劇映画やアニメが占めている。

佐渡島:
そうだよね。自分の考えを話す時に、「夏目漱石が、こう書いていたように」と伝えても、相手に理解されないからね。

また、『遅いインターネット』では、小説だけでなく、劇映画も含めて、自分ではない誰かの「他人の物語」への関心が相対的に低下してきているという言及もしているよね。第2章の「『自分の物語』とネットワークの世紀」という章に、こんな文章が書いてある。

 活版印刷の時代から映像の世紀に至るまで、人類社会では「他人の物語」を享受することによって、個人の内面が醸成され、そこから生まれた共同幻想を用いて社会を構成してきた。しかし、グローバル資本主義は共同幻想を用いずに、政治ではなく経済の力で、精神ではなく身体のレベルで世界をひとつにつなげてしまった。僕たちはこれまでのようには「他人の物語」を必要としなくなっているのだ。
 たとえばこの視点からは近代文学とは本質的に他人の物語でしかあり得ない小説を、様々な手法で自分の物語として読者に錯覚させる手法の開発を中心とした文化運動だった、と総括することもできるだろう。その役割は20世紀に劇映画に引き継がれたが、今世紀において個人が自分の物語を語ることが日常的になったとき、その使命は(少なくてもこのかたちでは)終わりを告げたと言える。
 情報技術の発展は、劇映画を終着点とする「他人の物語」から、自分自身の体験そのものを提供する「自分の物語」に大衆娯楽の中心を移動させている。

そして、本では「自分の物語」に娯楽の中心が移動したことによって、スポーツの分野においても、プロ野球などのプロスポーツを「観る」から、日常の習慣としてのライフスタイルスポーツであるランニングやヨガなどを「する」への移行が起こっていると説明されていて、すごく納得したんだよね。

もはや、「自分の物語」として語れるランニングやヨガが、「他人の物語」である小説やマンガの代替となっていて、僕が小説やマンガを読む人を増やそうと思っても、簡単には実現できないことを恐ろしく的確に伝えてくれていると思った。

宇野さん:
そもそも「他人の物語」の与える影響がここまで強くなったのは、放送技術や映像技術が発展した20世紀特有の現象だと僕は捉えている。

それが今は、インターネットで個人が発信能力を持つことで、もう一回、自分の物語の中に重心が戻ってきているんだと思う。どんなに凡庸なものであっても、自分の体験を語ることは気持ちがいいからね。

そして、長期的に「他人の物語」に大衆娯楽の中心が戻ることは、もうないだろうと僕は思うんだよね。

佐渡島:
もう逆戻りは起きないよね。「他人の物語」のほうが文化的に優れているんだと言っても、意味がないよね。 

宇野さん:
うん。僕は「他人の物語」が好きな人間だけど、20世紀がたまたま「他人の物語」の影響力が異常に強かったと考えるべきで、いまぐらいのパワーバランスが本来の姿だと思う。

だから、僕はいま、日常である「自分の物語」をよく生きるために、非日常の「他人の物語」をどう使うかについて考えているんだ。

今の「自分の物語」しか見えなくなってくると、ネット上で他人にマウントを取ったり、自分の生活を盛って書くことしかできなくなって、タイムラインに流されるだけのつまらない奴になっていくと思うんだよね。自分で考える力を失い、自立することができなくなってしまう。

重要なのは、与えられた「他人の物語」を、「自分の物語」に編み直すこと。つまり、批評が大事なんだよね。

20世紀においては、映画やプロスポーツといった「他人の物語」を受け取って、アーティストやアスリートの活躍する非日常に感情移入し、感動を共有することが娯楽の中心だった。それは刺激的な体験でもあるし、それによって世界の見え方が人も大勢いた。でも、これからはそうじゃない。これから先は、一人ひとりが「自分の物語」を表現することに関心をもって生きていく時代になる。

そんな時代において、佐渡島さんのような編集者だったり、僕のような批評家が、「他人の物語」というイレギュラーな快楽をどのように届けていくのかを、すごく考えていかないといけない。

そこに、僕らの使命のようなものの存在を感じるね。

(2020年3月19日に収録)

【お知らせ】Youtubeで対談動画を配信中

今回の宇野さんとの対談は、僕のYoutubeチャンネルに動画が掲載されています。記事に書ききれなかった内容も話しているので、よかったらコチラも是非。

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