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クリエイターにとって、最後の作品とは?

宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』を観てきた。

宮崎駿監督といえば、引退宣言を何度もしてきたけど、今回は本当に最後の作品なんだろうと感じた。そして、宮崎駿監督の最後を飾る作品として、これほどふさわしい作品はないと感じた。

どういう歩みを遂げることが、クリエイターとして最も充実した人生となりえるのだろうか。クリエイターを支える仕事をしていることもあり、そんなことをよく考える。

当たり前の話だが、どんなに偉大なクリエイターでも一番はじめは「何者でもない状態」から始まる。

何かを表現したい。自分の作品と呼べるものを生み出したい。そうした内なる衝動に従い、創作に向き合っていく。世界中の誰からも期待されていないにも関わらずだ。一作目とは、常に内なる衝動から生まれる。

自分の手で何かを作り出す喜びは、多くの人が持っている普遍的な感情だ。多くのクリエイターは、創作をはじめた頃はその新鮮さに酔いしれ、創作に没頭することができる。

しかし、その一作が認められると、創ることが仕事になる。創る喜びから、期待に応え、評価を受けることが、喜びの中心へとなっていく。

職業としてクリエイターを続けていくのであれば、世間が自分に求めているものへの解像度を高めていかないといけない。「世間が求めているもの」と「自分が表現したいもの」が握手できるところは何処かを探っていかないといけない。

もちろん、これは言うは易しだ。そもそも、世間が自分に何を求めているかなんて、簡単にはわからない。そして、外向きに意識が引っ張られすぎると、世間の反応に振り回されるような創作活動となり疲弊していく。そして、自分の内なる声を聞く気持ちも薄れていき、創作が喜びではなくなってしまう。

村上春樹も『職業としての小説家』の中で、「優れた小説をひとつ書くのはそれほど難しくないかもしれないが、小説をずっと書き続けるのはかなり難しい」と語っている。これは小説家だけでなく、創作に関わるクリエイター全員に言えることだ。

「世間が求めているもの」と「自分が表現したいもの」の中庸を探り、何作も作るというのは本当に難しいことだ。作品づくりを長年続けているというだけで、そのクリエイターのことは尊敬してもし尽くせない。

そうした歩みを続けたクリエイターが、最後の最後で「世間が求めているもの」への視点を一度脇に置き、一作目と同じような形で、自分の内なる衝動と真正面から向き合って作品をつくる。ある種、スタート地点に戻って、創作人生を締め括る。それは、簡単にできることではない。ぼくはクリエイター人生としてそのような創作への向き合い方を、美しいと感じる。

『君たちはどう生きるか』は、宮崎駿監督が自分の内なる衝動に従って、心の中にある心象風景をファンタジーとして描き出したかのような作品だった。「自分が表現したいもの」とひたむきに向き合う宮崎駿監督の姿が映画全体から透けて見えた。

世間が何を求めているかなんて、簡単にはわからないと書いたが、自分が何を表現したいかも簡単にはわからない。「ああではない、こうではない」と表現に苦悩している姿も垣間見えて、宮崎駿監督の人間臭さのようなものも感じ取ることができた。

タイトルは『君たちはどう生きるか』だが、「宮崎駿というクリエイターはこう生きた」と創作人生を振り返るような内容だった。

僕はクリエイターとしてこう生きた。では、「君たちはどう生きるか?」と問われているような気がした。創作に関わる人にとって、背筋が伸びるような作品だった。


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『宇宙兄弟』『ドラゴン桜』などのマンガ・小説の編集者でありながら、ベンチャー起業の経営者でもあり、3人の息子の父親でもあるコルク代表・佐渡…

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