気づいた時には、もういない。その繰り返し
「わかりあえなさへの抗い」
人と人とは、わかりあうことなんてできない。それでも、わかりあいたいともがく。ぼくが心を動かされる作品には、多かれ少なかれ、この主題が共通して描かれている。
平野啓一郎の最新作『本心』も、わかりあえなさへの抗いを描いた物語だ。
「もう十分に生きたから」といって自由死を願う母親の嘆願を、主人公は受け入れられないいまま、母親を突然の事故で失ってしまう。「なぜ、母は自由死を望んでいたのか?」という母親の本心に巡る物語の最後に、母親の願いを主人公はようやく飲み込むことができる。
時差で、母親の本心を知る。だが、その時に母親は既にいない。それでも、母親の死を受け入れ、一人で生きていく覚悟を決める主人公の姿を、ぼくは美しいと思った。
誰かがメッセージを送るのだけど、そこに含まれている真意に相手は気づけない。ようやく、受け手がその意味に気づいた時、メッセージを送った相手は存在していない。そんな「メッセージ ・イン・ア・ボトル」とも言える、遅れて伝わるメッセージを受け取った時の何とも言えない佇まいに、人間臭さを感じるのだ。
先日、世田谷文学館で行われている谷口ジローさんの個展を見に行った。
そして、たくさんの作品を見ながら、谷口さんから改めてメッセージを受け取ったと感じることがあった。
以前、『いい創作とは、魂と魂が磨き合う。』というnoteで、ぼくにとって谷口ジローという作家が、どういう存在かを書いた。
谷口さんは、ぼくが編集者になる前から大好きな作家であり、編集者として最も一緒に仕事をしたかった作家だ。一冊だけだけど、一緒に仕事をすることもできた。
そんな谷口さんが69歳の若さで亡くなった。
今でも、ぼくの中には緩やかな喪失感がある。
今回の個展の入り口に谷口さんの顔写真が飾ってあるのだけど、その写真を見ると、また寂しい気持ちが込み上げてきた。今も存命であれば、どんなマンガを今頃は描いていたんだろうと思いながら、展示されている作品を見て回った。
そして、ぼくが谷口さんと仕事を一緒にした作品『ふらり。』について、新たな感想をこのタイミングで持った。
この作品では、伊能忠敬が目的もなく、ただふらりと江戸の街を歩く。
そして、伊能忠敬は、ある時はトンボや蟻の目、ある時は鳥や猫の目といった風に、他の生き物になりきって視界を読者と共有する。
作品づくりをしている当時、ぼくはこの表現を絵的な工夫だと思っていた。ただ伊能忠敬が街を散歩しているだけだと、構図が繰り返しになってしまう。だから、構図に変化をつけるための工夫として、他の生き物の視界を借りたのだと思っていた。
でも、実は、もっと絵的な工夫以上の意味があるのではないか。
生物学の世界で『環世界』という言葉がある。
すべての生物は自分自身が持つ知覚によってのみ世界を理解していて、すべての生物にとって世界は客観的な環境ではなく、生物各々が主体的に構築する独自の世界であるという考えのものだ。人間と犬や猫が見ている世界は違うし、同じ人間同士でも、人によって見える世界はズレている。
ぼくは、いい物語というのは、作品に登場するキャラクターを通じて、自分とは違う別の環世界に触れることのできるものだと思う。作家は他者の環世界を描く。
そう考えた時に、『ふらり。』とは、伊能忠敬が様々な生き物の環世界を味わう様子を描いた作品とも言える。
そして、伊能忠敬という人物自体も、ぼくらとは大きく異なる環世界を持っている人間だ。彼は初めて実測による日本地図を完成させた人物だが、おそらく鳥の目のように、俯瞰して物事を眺めることのできる人だったのではないだろうか。
この『ふらり。』は、人間とは少しズレている様々な生き物たちの環世界を描こうとする谷口さんの挑戦であり、主人公を伊能忠敬にしたことをはじめ、すべての設定や演出に必然性があった。
この感想を谷口さんが生きている時に、谷口さんと話すことができたらなぁと思った。当時は、この『ふらり。』が持っている奥行きに考えが全く及んでなかった。
まだまだ、ぼくが気づいていないことが沢山眠っているのだろう。そして、それを発見する度に、気づけたことへの感動と、「このことについて、谷口さんと話してみたかった」と少し寂しい気持ちを味わうのだろう。
気づいた時には、もういない。そんなことの繰り返しばかりだなと思うと同時に、編集や創作の仕事の面白さを改めて感じた。
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