復讐もの以外描けない。この現実について思うこと
コルクでは「物語の力で、一人一人の世界を変える」をミッションに掲げている。では、“物語の力”とは何か?
先日、北京に出張してきた。
中国発のマンガは「国漫(グォーマン)」と呼ばれていて、基本的に紙ではなく、アプリで読まれる。そのほとんどはフルカラーで、縦スクロール読みだ。
現在、中国最大のマンガ配信プラットフォームである『快看』のユーザー数は3億人で、月間アクティブユーザー数は5,000万人を超えている。それくらいマンガ市場は巨大なものと化してきている。
そのなかで、マンガ制作をするプレーヤーには多様性が生まれている。大きなスタジオとして制作する人たちもいれば、3〜4人の少人数で作品を制作している人もいるし、個人で全てやっている人もいる。
今回の中国出張では、マンガ制作に関わる色々な人たちと話してきたのだが、多くの人が口を揃えて嘆いていたことがあった。
それは「復讐もの以外、描けない」という話だ。
マンガアプリでヒットしている作品の多くが、「復讐もの」の要素が色濃く入っている作品ばかりなので、アプリ側が復讐もの以外の企画を受けつけてくれない。その結果、クリエイターが本当に描きたい作品が発表できなくなってきている。作品の多様性が失われていっている。そうした話だ。
マンガアプリの場合、最初の数話で読者の興味を惹かないといけない。「復讐もの」は、最初の数話で主人公が不当な目に遭遇するというヒキをつくり、最後にはスッキリできる展開が待っていることを読者が予想しやすい。流行りの「タイムリープもの」も、似たような構造だ。
だが、ここまで「復讐もの」が流行っているのを見ると、フォーマットだけの問題ではないと感じる。
自分の置かれている状況は不当ではないかと考え、「復讐もの」の主人公たちに同調する。そして、主人公が復讐を果たしていく姿を見ると、スカッとした快感を感じられる。ある種、現実世界におけるストレス解消を目的に、作品がどんどん消費されていっているのではないだろうか。
ぼくは、こうした状況にものすごく違和感を感じる。果たして、創作とはそんなことのためにあるのか?
ぼくが思う“物語の力”とは、コルクのミッションで書いたとおり、その物語に触れた読者の世界観を変えることだ。
自分の置かれている状況は不当だと思っていたけど、登場人物たちの物語を追体験することで、考え方が変わったとか。復讐心が溶けたとか。自分のやるべきことが見えたとか。そういう風に、読者の世界観をいい方向へと揺さぶることができるのが物語の力だ。
物語とは、読者の心にある不満に同調して、増幅させるためのものではないはずだ。
日本でも、マンガプラットフォームの影響力が強くなるにつれて、中国同様の流れが起きる可能性は高い。データをもとに作品を企画していくスタイルだと、売れている作品に追随していまい、バラエティが失われていく。
どうやって、“物語の力”が宿るたくさんの作品を世の中に送り出し続けていけるか。
それがぼくのやりたいことだし、コルクが目指したいことだと、今回の中国出張で改めて感じた。
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コルク佐渡島の『好きのおすそわけ』
『宇宙兄弟』『ドラゴン桜』などのマンガ・小説の編集者でありながら、ベンチャー起業の経営者でもあり、3人の息子の父親でもあるコルク代表・佐渡…
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