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固定化された“知”ではなく、動的な“知”をどう学ぶか?

現在、長男の不登校が続いている。

少し前に投稿した『子どもに“委ねる“覚悟と、子離れの難しさについて』というnoteにも書いたけど、去年の1学期までは学校に通っていたが、2学期の途中から途端に行かなくなった。

この春で中学2年生になったのだけど、新学期が始まってからは一度も学校に行っていない。それどころか、欠席や遅刻の連絡すら学校に入れていない。まるで学校が存在していないかのように、堂々と学校を休んでいる。

長男は学校がある日は昼近くまで寝ているのに、学校がない日は朝早く起きる。でも、早く起きたところで、何か活動的なことをするわけでもない。ベッドでスマホをイジりながら、ダラダラと過ごしている。

ひきこもりに近い状態で、社会との接点が失われてきている。

ぼくは不登校であることに、特に不安を感じてはいない。でも、ずっと自宅に引き篭もっている姿を見ていると、さすがに心配になってくる。

叱って解決できるなら、それが一番はやい。だが、ぼくが会社をやって気づいたことは、相手を叱っても、いい方向には1ミリも進まないことだ。短期的に改善されたように思えても、それは上辺だけ。長くは継続しない。だから、子育てに関しても、叱ることで何かを改善しようとは全く思わない。

なんとか息子をいい方向に向かわせられるような接し方ができないか。そんな風に考える中で、ある一つの考えに辿り着いた。

それは、ぼく自身が「学校に行っても、行かなくても、どちらでもいい」と思っている気持ちと、息子の気持ちが共鳴しあって、それが悪い方向へと流れてしまっているのではないか。そうした仮説だ。

そもそも「学ぶ」とは何なのか。

最近、認知科学を専門分野にしている鈴木宏昭さんの『私たちはどう学んでいるのか』という本を読んだのだが、すごく刺激的な内容だった。

多くの人は「知識とは、言葉で伝えることができるもの」というイメージがあると思う。言葉によって、持ち運んだり、誰かに渡したり、誰かから受け取ったりすることができるもの。だが、鈴木さんは、知識とはそういうものではないと否定する。

この本では、知識には「3つの性質」があると説かれている。

一つ目は、一般性。色々な場面で使えること。
二つ目は、関係性。孤立した知識はほとんど何も役に立たず、知識とは他の知識とリッチな関係性を持っていなければならない。
三つ目は、場面応用性。知識はそれが必要とされる場面において発動、起動されなければならない。

このように知識を捉えると、誰かに何かを教えられた途端に、知識として定着することは原則的に起こり得ないことが理解できる。

教わった事柄が、どのような範囲をカバーしているのか。それは他の知識とどう関係するのか。そして、どのようなシーンで活用すべきなのか。そうしたことを学習者本人の頭で考える作業を行ない限り、その事柄は単に記憶としてしか存在せず、知識にはなり得ない。

だから、学校で教師が伝えているのは、知識ではなく「情報」に過ぎない。情報とは単に素材であり、それを知識にするためには、学習者自らの経験を通じて、構造化させていかなければならない。

だから知識はモノのように捉えてはならず、置かれた環境に影響を受けながら、絶えずその場で作り出されるという意味で、コトとして捉えなければならない。そのことを、この本では「モノ的知識観」から「コト的知識観」へと呼んでいる。

テストに出題されるような固定化された“知”ではなく、関係性の中で揺れ動いていく動的な“知“。こうした知を積み重ねていくのが「学び」であって、この本を読んでいると、頭が整理されていく感覚があった。

そう考えると、学校の授業で教わるのは「情報」となる。そして、今の時代、インターネットの世界には、個別最適化された情報が山のようにある。「これを知りたい」と思ったら、その道に詳しい人が、わかりやすく教えてくれるコンテンツがすぐに見つける。

だから、何もそこまで学校に行くことにこだわる必要はない。そういう風に捉えている自分がいて、そうした態度が気づかぬうちに息子に影響を与えているのではないか。そんな風に自責の念を感じることがある。

でも、学校とは、情報を得るだけの場ではない。

以前にもnoteに書いたことがあるが、学校において一番大切なのは、他者との関係の築き方を学ぶことだと思う。

当たり前の話だが、人はひとりでは生きていけない。仕事にしても、何にしても、他者と協力しあうことが必要になる。一方で、他者とコミュニケーションをとるのは簡単ではない。相手の気持ちを理解するのも、自分の考えを相手に伝えるのも、一筋縄ではいかない。

様々な失敗を経験して、「あの時、ああいう風にしていればよかった」と振り返りながら、他者との関係を築くための知識が蓄積されていく。それはまさに動的な“知“だ。それを学ぶために、学校には色々な仕組みが取り入れられているように思う。

だから、勉強を頑張れとは言わないけど、同い年の子どもたちと触れ合ってきてほしい。友だちと一緒に過ごすなかで、他人と関係を結ぶ経験を積んできてほしい。そこから、他者と生きるための「学び」を得てきてほしい。

学校という場が、色々な要素を含みすぎていて、向き合い方が難しい。

どういう態度で、長男の不登校に接するといいのか。はっきりとした指針が無さすぎて、迷いに迷っている。


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『宇宙兄弟』『ドラゴン桜』などのマンガ・小説の編集者でありながら、ベンチャー起業の経営者でもあり、3人の息子の父親でもあるコルク代表・佐渡…

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