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「言葉のズレ」の自覚が、共感のはじまり

利害関係を超えた関係を築けている人は、世の中にどれくらいいるのか。

WE ARE LONELY,BUT NOT ALONE.』という本にも書いたけど、ぼくは幼少期から「孤独」を感じていた。それは、周りに人がいなかったからではない。遊ぶ仲間はたくさんいて、会話は溢れていた。

では、何に孤独を感じていたのか。
それは「言葉」が通じ合っていないという感覚だ。

ぼくは、お互いの解釈が明らかに違っているように見える人同士が「そうですね」と同意し合っている様子を見ると、ものすごく気になってしまう。

なぜ理解がすれ違っているのに、「そうですね」と声をかけ合うのか。本当に合意しているのか。それとも、合意はしていないけど、物事を前に進めるために、あいまいにぼやかしているのか。

飲み会でも同じように感じることがある。みんなが笑いながら「わかる、わかる」とやり合う様子は、傍目には彼らがとても仲がよく、互いに共感しあっているように見える。だけど、会話の内容を聞いていると、言葉が全然揃ってなくて、真逆のことを言い合っていることがある。

多くの人にとって、会話とは猿の毛づくろいのようなもので、仲良くなるための手段だ。それに、ぼくは違和感があり、会話はもっと概念のすり合わせでありたいという欲望がある。

その感覚が、「ぼくが話しかけた言葉は、誰にも届かないんだ」という観念に結びついていた。相手の話を受け取り、それに対して発信しても相手に受け取ってもらえない。そんな言葉が通じていない感覚が、「誰かと一緒にいても、すごく孤独だ」と感じさせていたのだと思う。

同じことが、ぼくと本との関係にも現れている。

ぼくは「純文学」と呼ばれるジャンルが好きだ。ぼくが考える定義では、既に世の中にある概念を組み立てて読者を魅了する物語を「エンターテインメント」。作者の頭の中にだけある、まだモヤっとしている概念を、物語を通じて伝えようとするのが「純文学」としている。

なぜぼくが「純文学」を好きかというと、他人には簡単には共有できない想いを、作家がなんとか伝えようともがく姿に惹かれるからだ。作品を読むことで、作家と心の深いところでしっかりとコミュニケーションできたような実感が持てる。一方、「エンターテインメント」は素晴らしいショーを見たような満足感は得られるが、コミュニケーションした感覚にはならない。

幼い頃から本を読むのが好きだったのは、読後に残るその実感が、ぼくの孤独感を癒す役割をしていたせいかもしれない。誰かと繋がったという感覚。編集者になったのも、幼い頃から一人で本の中で作家と行っていたコミュニケーションを、生きている作家相手にしっかりやってみたいという考えがあったからだ。

人間は育ってきた環境や経験によって、見える世界は全く変わる。同じ「言葉」を使っていたとしても、その意味は千差万別だ。

例えば、ぼくにとっての「企画」とはコンテンツをつくることだけど、コンテンツとコンテキストの両方をやりきってこその企画という考えの人もいる。だから、ぼくが「企画が甘い」といえば、コンテンツの甘さを指摘しているのだけど、人によっては同じ表現を使って、コンテキストの甘さを指摘していることもありえる。

作家と一緒に作品づくりをしている時も、お互いの言葉が揃っているわけではないと思ったほうがいい。「演出が弱い」と言った時の「演出」の捉え方は一緒なのか。まずは互いのズレを認識し、言葉の定義をすり合わせるところからはじめないといけない。

相手の言葉の意味がわかる。相手の言葉に「共感」するということは、丁寧に段階を踏まない限り到達しない。だから、SNSでの「いいね」を共感と呼ぶことに、ぼくは抵抗を感じる。

では、どうやって言葉をすり合わせていけばいいのか。そんなことを考えている時に、細谷功さんの『具体と抽象』に出会った。

具体レベルで会話をしている時に起こるズレ。片方は抽象レベルで考えていて、もう片方は具体レベルで考える時に起こるズレ。抽象の仕方の差で起こるズレ。この本では、言葉によるすれ違いが起きしてしまう要因を、「具体と抽象」という視点からわかりやすく説明してくれる。

そして、いかにお互いの言葉がズレているかを可視化するために、細谷さんが考案した「DoubRing(ダブリング)」という手法も、ぼくの思考をものすごく刺激した。

ダブリングでは「理想と現実」「生と死」といった2つの言葉の関係を、頭の中でどのように捉えているかを2つの円で表現していく。例えば、「失敗と成功」であれば、成功の中に失敗が包括されているという人もいれば、成功と失敗を完全に区別して考える人もいる。

ダブリングで言葉や概念を視覚化することで、自分と相手の捉え方がどう違うのか、そのズレが見えてくる。ダブリングは相互理解や思考力を深めるきっかけとなる。

こんな風に、細谷さんの考えに刺激をもらっていた矢先、『具体と抽象』の編集者の松戸さんから「細谷さんと対談をしませんか」という提案がやってきて、二つ返事で引き受けた。

対談は数回に渡り、毎回、お互いが気になっている日常の具体を抽象化し、また別の具体へと話が飛んだ。「友人とは、趣味が一緒の人ではなく、会話の抽象度が一緒の人である」と知人が友人を定義していたのだけど、まさに、細谷さんは会話の抽象度が合う人だった。楽しみながら、色々な話題について話をした。

そして、細谷さんとの対談が一冊の本にまとまった。
タイトルは『言葉のズレと共感幻想』だ。

近年のSNSなどでの人々のつながりにおけるキーワードとなっている「共感」に対して、あえて「幻想」という言葉を使っている。共感とはある種の自己満足の産物であり、個人の頭の中にある幻想に過ぎないのではないかというのが、この本に置かれた仮説のひとつだ。

人と人とは、わかりあうことなんてできない。それでも、わかりあいたいともがく。その姿に、ぼくは人間臭さを感じる。以前、『潜む声に耳を澄ませる』というnoteにも書いたが、ぼくが心を動かされる作品には、「わかりあえなさへの抗い」が必ず描かれている。

言葉とは、いかに曖昧で脆弱なものかを知る。そして、言葉のズレを自覚する。そこから全てははじまり、その先に本当の意味での「共感」があるのではないか。

仲良くなるとは、お互いの言葉が揃っていくことだと思う。言葉を交わしながら、お互いの思考を深めていく。それが、ぼくのやりたいことだ。


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