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観察とは"本能"に抗う行為

ぼくの3冊目となる著作『観察力の鍛え方』だが、先週、脱稿することができた。発売は9月7日だ。

今回は、「観察」という言葉を生み出した仏教をはじめ、様々なジャンルの文献を参考にしながら、ぼくなりのやり方で、「観察とは何なのか?」を探ってみようと試みた本だ。

ぼく自身、観察について「わかった」とは思っていない。あいまいなまま、わかりきっていないままの、ぼくの仮説が書き連ねている本とも言える。

だが、完全に「わかった」という状態など存在しないわけだから、自分の考えを世の中にさらけ出してみて、読者からのフィードバックをもらいながら、自分の考えを深めていきたい。そのプロセスにおいて、「観察について考える参考になった」という人が現れたならば幸いだ。

今週のnoteでも、発売に先駆けて、本の5章「あいまいのすすめ」に書いた「観察とは本能に抗う行為」の内容を紹介する。

エポケー。

なんとも間抜けな言葉の響きだ。高校の倫理の授業で、ギリシア哲学の用語として出てきて、なんとなく響きだけ覚えている。「判断保留」という意味だと言われても、判断保留するということをなんでわざわざ特別な言葉で言うのか、早くいい判断をできる方がいいではないかと、エポケーのことはすっかり忘れてしまっていた。

最近の僕の頭の中では、何かあると、エポケーという言葉が、カッコウの鳴き声のよううに鳴り響く。

エポケー。

この言葉の持つ重要さが、やっとわかるようになってきたのだ。

僕たちは、生まれてきて、何もわからない状態だ。だから、大人が子供を守り、子供教える。知識を身につけたいと思う。「わかりたい!」と思う。

人の話を聞きながら、僕たちはたくさんうなずく。わかっていることを伝えるためだ。「わかってる?」と質問された時の答えは、「はい」が期待されている。「わからないから、もう一度」とか「これってわかる必要があるのか」なんて答えは求められていない。僕たちは、日常生活の中で、早くわかる存在になろうと努力している。僕らが、必死に何かを学び、わかろうとするのは、いい判断をするためだ。僕らは、いい判断をできる人になりたい。

そして、いい判断をするのを助ける情報を求める。

ビジネス本を読むのは、その考えに基づいて判断したら、今の自分よりもいい判断ができるかもと期待するからだ。

僕の中で何かを「わかった」と思った瞬間に、エポケーと鳥が鳴く。わかったって何?どんな状態?わかりたいことにしたいのはなぜ?と矢継ぎ早に自問自答する。

青い鳥がいたら、世の中どれだけ楽だろう。青い鳥、南無阿弥陀仏、宝くじが当たること。絶対的な幸せの象徴。どれも手に入れたら、幸せになると人々が思っているもの。

しかし、どれも手に入ることがない。手に入ることがないから、一生追い続けることができるとも言える。エポケーとは、絶対を諦めることだ。僕は、エポケーという言葉を発し、再度、観察を始めることで、青い鳥を思い求めない人生を過ごしたいと思っている。

まずは、学ぶという行為を二つに分けてみたい。

1 「スキルを身につけることで、無意識に行えるようにする学び」
2 「身につけているスキルを、意識的に行えるようにする学び」

学校教育も一般的な学びも1であることが多い。どうやって1の学びを効率的に行うかということを多くに人は議論している。『ドラゴン桜』で伝えていたいたのは、この学びをどうやって効率的に行うかだ。詰め込みで、基礎学力を身につけることが重要だと主張している。

この観察をめぐる僕の思考は、どうやって2の学びをするかということに終始している。最近よく言われる「アンラーン」という学び方とも言えるかもしれない。一度、身につけた学びを手放す。手放すために、バイアスや感情を理解して、観察することが必要なのだ。

2の学びは、アンラーンだとしたら、ラーンの後にしか来ない。1の学びをある程度極めてからでないとできない。1を経ずして、2の状態にいくことはない。2は、判断保留している時、エポケーの時にやってくる。

3章でバイアスに気づいた時は問うようにしていると言った。問いを発し、その問いのために観察をすることで、判断保留が起き、無意識にやっていたことを意識的に行うようになる。

僕たちは、意識していることしか思考できないので、無意識の力を低く見積もりがちだ。反応のかなり多くは無意識に行われている。それどころか、どうやって無意識で行い、習慣に組み込んでしまうかという努力を、僕たちは普段している。

例えば、車の運転。教習所に通っている時、左折するには、何段階もの過程を踏む。巻き込んでいる人がいないかなどを細かくチェックする。運転に慣れてくるとは、途中の過程をすっ飛ばすことではない。多くの過程が無意識に行われるようになることだ。「慣れた頃が一番危ない」というのは、無意識で行うようになる時に、必要な過程が抜け漏れてしまっていて、無意識であるがゆえにそのことに気づけないからだ。

スポーツのトレーニングで、素振りをたくさんするのも、無意識で体が動くようにするためだ。毎回、理想的な体の動きをしているか、意識的に観察していたら、試合の最中は間に合わない。何よりも、脳が疲れてしまって、たくさんの情報を処理しきれない。重要な反応は無意識やバイアス、感情に任せてしまうことで、脳は空き容量を作って、もっと他の違うことを観察できるようにしている。

2章で述べたような、愚直なディスクリプション、徹底した真似る、型を身につける目的は、まさにこの無意識下に置くことだ。わかっていると感じているから、無意識で判断できる。無意識の判断の方が怖くない。正しい決断だったのか、心に迫られる必要がない。

学習によって、無意識で行うようにするのは、身体的なことだけではない。計算もそうだし、思考法などもだ。世の中で俗に言われている「直感」や「センス」とは、思考を無意識下に置いて、予測してしまうもので、無意識に置くものが多くなればなるほどいろんな仮説が思いつきやすくなる。一定量の知識や経験があるとそれを使って、無意識に仮説が浮かび上がってくる。

人は、わかりたい。本当の正解などないとしても、正解の側に立ちたい。あいまいさから抜け出したい。バイアスにしても、感情にしても、意思決定を無意識で行うようにする行為だ。

できるだけ無意識で動きたいというのが人の本能なのだ。本能は、人が無意識の自動操縦で生きれるようにしている。

そして、その無意識で行っていることを、全て観察する。
観察とは、本能に抗おうとする行為だ。

既知のことを観察して、手放していくと、あいまいな世界になる。正解などない世界になる。あいまいな世界は、不安だ。その状態で居続けるのは勇気がいる。しかし、その状態になって、世の中を観察する。自分の感情を観察する。そして、自分の感情に従う。

それが、僕の目指している生き方で、世界をあいまいなまま味わうことにどうやったら慣れるのかということを考えている。

今週も読んでくれて、ありがとう!今後も、9月上旬の『観察力の鍛え方』の発売に向けて、ぼくのnoteでは書籍の内容を先出していきます。

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