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「想像できる」という傲慢、「想像しよう」とする謙虚

コーチングを学んでいると、「わかる」という言葉は簡単に使ってはいけないことを学ぶ。「わかる」は相手を傷つけることがあるからだ。

傷ついている相手に寄り添おうとして、「同じような経験があったから、あなたの気持ちがよくわかる」と告げると、「あなたの経験と私の経験は同じじゃない。あなたに私の気持ちがわかるはずない!」と、それ以上話すのをやめてしまうことがある。安心して話してもらうために、相槌のように使った言葉が、逆効果になって、心を閉ざすきっかけになる。

感情がまだ言語化できていない時に、「わかる」と言われると、逆にわかりあえなさを感じてしまう。「わかる」は寄り添っているように見えて、「分ける」に近く、境界線を引く言葉だ。「わかる」には傲慢さが含まれる。

それと同じで、相手の体験や境遇を「想像できる」と思うことも、ひどく傲慢な思い上がりだ。そのことに改めて気づかせてくれた本がある。

『食べることと出すこと』という本だ。

大学3年の時に「潰瘍性大腸炎」という原因不明の病気を患った作者が書いた本で、食事と排泄という「当たり前」が当たり前でなくなった時、世界はどう変わったかが書かれている。エッセイであり、小説のようでもあり、哲学書のようにも読める一冊だ。(ちなみに安倍元総理も、同じ病気だった。ストレスによる下痢どころじゃない。これだけ大変な病気と日本のトップという仕事を両立していたのかと驚愕した)

それまで健康だった作者の頭木さんは、突然の病気によって体重は26キロも減り、亡霊のように痩せ細った姿となった。その後、6キロほど体重は戻ったが、それ以上は戻らないそうだ。今でも「今の自分の姿は、本当の自分ではない」と思うことがあると言う。

病気になったことで、人生に対する考え方や、他者との関わりが、どう変わったのか。病や痛みが、どんな風に人を孤独にするのか。頭木さんが体験した様々な困難や不自由さが、独特のユーモアをもった文章で綴られていて、一つ一つのエピソードに引きこまれる。

この本はシリアスな闘病記でもあるのだが、「食べる」と「出す(排泄する)」とは何かを考えさせれらる本だ。

頭木さんは、食べるとは「受け入れる」に等しいと言う。

同じ釜の飯を食った仲間という表現や、飲みニケーションという言葉があるように、「同じ食卓を囲んでこそ、信頼関係が深まる」という考えを多くの人は持っている。食事はたんなる栄養補給ではなく、他人を受け入れるためのコミュ二ケーション手段なのだ。

だが、それは言い換えると、食事を供にすることを断ったり、差し出した食べものを受け取らない行為は、相手を拒絶するように映ってしまう。

では、「食べる」行為を、何かしらの理由で失ってしまった人はどうなるのか? この本では、食べられない人が社会の中で感じている「居心地の悪さ」や「生きづらさ」の一端に触れることができる。

頭木さんは、退院した後も、できる限り大腸への負担を減らすために、食べる行為に警戒しながら過ごす。食べることに失敗したら、即下痢。下手したら病気が再燃する。どこまで食べたら再燃するかの個人差が大きいこともあり、一口一口食べながら見極めていくしかない。

「難病で食べられない」ことを周囲に伝えれば、食べることを強要しなくなるのでは…と思うだろう。だが、実際にはそうはならないと、頭木さんは言う。放ってくれないのだ。

 ”病人のお見舞いに来て、病人が身体によくないと言っているものを、なぜ無理にも食べさせたがるのか、当時は不思議な気がしたものだ。
 食事に介助が必要な人の場合も、おいしそうに食べる人がよしとされるところがあり、それが圧力となっていた。そのため、無理しておいしそうに食べている人がけっこういた。ただでさえ身体が不自由でつらいのに、そんな演技までしてしまうのだ。
(中略)
 「食」でつながることを求める圧力は、難病というハードルさえ超えるのである。それほど強力なのだ。
 相手が病気で食べられなくても、食べることを強いる。食べられないものは圧力をかけられ、非難され、そして排除される。”

※『第4章 食コミュニケーション ーー共食圧力』より引用

頭木さんは、食べられないことで、どんどん孤独を感じていく。病気になった後の生きづらさの大部分が、食べられないことにより、人間関係がうまくいかなくなることに起因していると言う。

病と痛みについて僕たちは、想像しようとする。

しかし、想像しても、僕たちは無自覚に、圧力をかけてしまうことがある。ただ食を通じて、相手と楽しく繋がろうとしているだけなのだ。

結局は相手を本当に理解しないで、自分にとっていいことを相手に強要してしまう。頭木さんのような病は、どれだけ深刻なのかが他人に分かりづらい。善意から「少しでも栄養のあるものを食べたほうがいいよ」と薦めてしまったり、「これくらいなら、いいんじゃないか?」と思ってしまう。

外部から分からない痛みがある。不安や恐怖も、外部からは見えない。

この本を読んでいると、多様性を受け入れることの難しさを実感する。僕たちは、寄り添おうとするたびに、想像できていない相手を傷つけている。『シザーズハンド』という手がハサミになってしまっていて、傷つけるから誰も抱きしめれない男の話があるが、精神的にあれはリアルな話なのだ。

想像力には、限界がある。自分が置かれてみないと、どんな状況も分からない。

本の「あとがき」では、山田太一さんの文章が引用されている。

「災害にしろ、病気にしろ、経験した人としない人とではものすごい差がある。一生懸命想像はするけれど、届かないものがあるということを忘れてはいけないと思う」

当人は想像も及ばない体験をしているのに、周囲の健康な人たちが、自分たちの想像の範囲内で推測して、わかっているつもりになる。それがさらなる悲劇を生む。

だが、わからないからといって、開き直るわけではない。「経験しないとわからない」ことがあることを前提に、この本のような経験した人が書いたものに触れれば、「そういう可能性もある」と想像力が働くようになる。

「想像できる」と思い上がるのは傲慢だが、「想像しよう」とする謙虚さは絶対に必要だ。想像し続けるしかない。

フィクションは、そのような想像の補助線になる。

『食べることと出すこと』には、文学作品からの引用が数多く登場する。それは、頭木さんが闘病生活の中で、「自分の気持ちが、この本に書いてある」と、文学作品を心の支えにしたかららしい。

引用された文章を書いた作家たちが、頭木さんと同じ経験をしたかというと、そうではない。脚本家の山田太一さんは、食べることに何の困難もないのに、食べられない人の気持ちが本当によくわかっていると、頭木さんは指摘する。世界を観る解像度が高いのが、一流の作家なのだ。

「経験しないとわからない」ような世界を想像しようと努め、物語で伝える。物語の書く中で、作家は経験するのだ。

『食べることと出すこと』は新人マンガ家をはじめ、多くのクリエーターや編集者に読んでもらいたい本だ。


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