
海外で圧倒的に賞賛される漫画家・谷口ジロー『「坊ちゃん」の時代』
フランスやイタリアで最も有名な漫画家といえば、谷口ジローである。谷口ジローの作品は、多くの人に読まれているので、フランスのエンターテイメント小説の中の描写に普通に出てくるし、『遥かな町へ』という作品は、べルギーで映画化されている。ヨーロッパでは日本の漫画家といえば、谷口ジローで、ルイ・ヴィトンとのタイアップなども行っている。
世界は圧倒的に、谷口を賞賛しているが、日本ではどうか?もちろん漫画業界で、知らぬ人はいないし、漫画家を目指す人の中で谷口の影響を受けている人は多い。しかし、海外の評価が逆輸入されることもなく、商業的な大ヒットはあまりない。
日本国内で谷口を知っている人は、『孤独のグルメ』の作家としてだろう。ドラマ化もされ、国内でもっとも売れた作品ではある。谷口ジローの作品は、傑作ぞろいだというのに、『孤独のグルメ』でしか谷口ジローを知らないのは、もったいなさすぎる。
僕がもっとも好きな谷口作品は、『「坊ちゃん」の時代』だ。関川夏央が原作で、全5巻で完結する、この作品は、夏目漱石、森鴎外、石川啄木、幸徳秋水を描くことで、明治という時代を描いている。
高校時代に日本史の教師が「自分の授業よりもこの本を読む方がずっと明治という時代の勉強になる」というから読んだのが、この本と出会うきっかけだった。国語の教科書で読む漱石や鴎外の文章には、全く興味を持てなかったのだが、『「坊ちゃん」の時代』を読んだ後は、無性に漱石や鴎外が読みたくなった。
なぜ僕は、編集者という職業を、そこそこうまくやることができているのか?このレビューを書くにあたって、再度『「坊ちゃん」の時代』を読み返しながら、この作品のおかげではないかと思っている。
この作品の漱石は、なんとも情けないのだ。胃痛を抱え、なにかストレスがあると嘔吐し、お酒を飲むと悪酔いする。そして、愚痴を言う。漱石の小説からは浮かび上がってこなかった姿が、漫画では露わになる。描かれる漱石は、情けないだけではなく、何とも人間味に溢れ、好きになる。教科書で知る人物、体温のない人間のように感じられるが、谷口の作品で読むと、誰もが体温を持った生身の人物として描かれ、時代を動かした人物たちも、決して悠然としていたわけではないことを知る。
この作品は、ナレーションがうまく使われているのだが、
漱石と鴎外の出会いのときに、このようなナレーションが入る。
水道橋をふたりの明治人は歩む鴎外も漱石も自身が文学史に消し得ぬ足跡を残すことになるとはまだ知らない ただ同時代人としてしめやかに語らうのみである 漱石は鴎外の横顔を凝視した ここにもひとり西洋に学びつつ西洋に距離をおく知識人がいる自分だけがなじめなかったのではない孤立するものにもあらず
イギリスに留学した漱石は、エリートとして、迷わず未来を見据えていたのではなく、他の日本人と違うものを見てしまったが故に、孤独を感じ、苦悩し続けていたのだ。
『「坊ちゃん」の時代』は、作家の苦悩をすべてさらけ出してみせている。
作家は、作品で、自分の苦悩をさらけださない。出会ったばかりの編集者に、苦悩をさらけだすこともしない。しかし、この作品を何度も読み返していた僕は、たとえ作家が僕に見せなくても、すごく人間的な、些細な苦悩を、作家が抱えていることを、当たり前のことだと思い、作家に接してきた。それが、この10年間ちょっと、仕事をうまくやってこれた秘訣のような気がする。
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