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漫画がノーベル賞を取る日はいつか?

 いつもケイクスの加藤さんとは事前打ち合わせをしないので、自然と違う題材になる。しかし、今週は、同じ題材について語ってみようと思う。その方が、差が見えて面白いかもしれない。先週、加藤さんが扱ったボブディランのノーベル賞受賞ニュースについて、僕はどう感じたか。


 ベテラン漫画家の話を伺うと、自分たちは、この人達が築いた道の上を歩かせてもらっているのだと自覚する。身近にありすぎるものは、それが実はまだ数十年の歴史しかないとは、なかなか認識できない。

 手塚治虫さんと同世代の漫画家の人達は、PTAに自分の漫画を焼かれていて、それをニュースで観たりしていた、ということを知ってかなり驚いた。漫画という文化を作り上げた漫画家たちは、どれだけ深く、漫画のことを愛していたのか。そのような情熱を持っている人達の、粘り強い行動があって、芸術は世間に根を下ろしていく。

 僕は経済産業省の電子書籍の会議などに呼ばれることがあるのだけど、そこで「ネット企業が漫画をビジネスにしているけど、そのような愛のない人達が漫画に関わることが不安だ」というような発言をした人がいた。その時のある大御所の返しが面白かった。「私がデビューした時は、出版社でも漫画の部署の地位が低くて、原稿を上げた作家に対して、自分はジャーナリズムがやりたくて出版社に入ったのに、漫画の原稿を受け取らないといけないなんて悲しい、と平然という人を相手にしないといけなくて、その状態を10年以上続けていて、やっと漫画をやりたくて出版社に入ってきたという編集者に会えるようになったから、ネット企業も大丈夫です」

価値のあるものを生み出しても、世の中が理解するのは、ずっと先、20年、30年後のことだ。しかし、同時に世間が価値を認め、表彰するようになると、その分野は保守になり、革新的な作品が出なくなっていく。ディランはこんな風に言っている。

シェークスピアのように私も、創造的な努力とともにあらゆる日常的な物事に追われることばかりです。「これらの歌にうってつけのミュージシャンは」「このスタジオはレコーディングに適しているか」「この歌のキーはこれで正しいか」。400年もの間、何も変わらないことがあるわけです。
 これまで「自分の歌は『文学』なのだろうか」と自問した時は一度もありませんでした。

 漫画家も、一流であればあるほど、自分の作品のジャンルなど何も気にしていない。ただ目の前にある些細な日常的な出来事を、どうやって解決するのか、ということを、異常なまでのこだわりで徹底的にやり抜いている。

 ディランのコメントを読みながら、僕は一緒に仕事をしている漫画家、小説家の顔が浮かんだ。彼らが、ノーベル賞を目標にして作品を描くことはない。作家は、ただ、その作品のことだけに集中している。

 一方、それを世に広める役割を持つ、僕らは目標にすると仕事が面白くなると感じた。

 コルクという社名には、ワインを世界中に運ぶために上質なコルクが必要であるように、作家が生み出したものをコルクが世界に届ける、という想いを込めている。

 実のところ、漫画の市場は、世界的にまだ0に近い。アメリカやフランス、比較的よく読まれている韓国、台湾でも、漫画は子供が読むものと思われていて、青年漫画の市場はほぼない。手塚治虫さんが、開拓し始める前の日本と同じ状況だ。クールジャパンという言葉とともに、日本のコンテンツは世界に受け入れられていると思っている人が多いが、それはアニメであって、漫画ではない。

 ディランがノーベル賞をとったのなら、30年後に漫画がとってもおかしくない。これから、世界に漫画を広めていき、漫画が大人が読むもの、大人の人生を変えるものであると世界中の人の認識を変えていくことは、僕が登る山の形だ。

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