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「強い者も弱い者もいないのだ」『沈黙』の主人公は誰なのか?

 (『沈黙』についてのネタバレあります) 

 南アフリカに住んでいた中学生の頃の僕の妄想は、女の子のことではなく、もっぱら強盗に襲われた時のことだった。

 日本人学校の国語の先生も父親の毎日の送り迎えをする運転手も殺されてしまったし、学校の友人も前の晩に家を銃をもった強盗に囲まれた経験を持っていた。夜中の赤信号で車は止まってはいけなかったし、家の中は赤外線がはってあって、朝になるまで自分の部屋とトイレ以外の移動はできなかった。だから、強盗に襲われるというのは、あながち現実味のない妄想ではなかった。

 その妄想をする時、僕はいつも『沈黙』に出てくるキチジローだった。強盗の前で、僕は無力でただ命乞いをしていた。周りを助ける勇気などなく、ただ自分のためだけに行動する姿だけがイメージできた。僕は、キチジローであり、キチジローを許せないと思う存在であった。だから、どうすれば精神的に強くなり、キチジローのような恐怖に負けてしまう人間から、脱することができるのか、ということを考えていた。同時に、キチジローを許し、受け入れ、愛することができるのも同様に強さだと考え、そのような強さを持ちたいとも考えていた。

 遠藤周作にとって、弱い人間は、常に文学のテーマだった。『沈黙』で本当の主人公は、ロドリゴではなく、キチジローであると、僕は感じていた。物語の重要な部分も、ロドリゴが棄教するかどうかではなく、キチジローを受け入れるかどうかだと。

 なぜ、フェレイラもロドリゴも棄教したのか。二人は、神の愛とは、踏み絵を踏まないことではなく、キチジローのような弱いものと共に苦しみ、愛することだと気づき、棄教が真の意味の棄教にはならないと考えたのだ。

「自分は彼等を裏切ってもあの人を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。……そして、あの人は沈黙していたのではなかった。」

 棄教しても、ロドリゴは、あの人と共にいるのだ。

 映画『沈黙』は、本にかなり忠実だ。ストーリーは、ほとんど一緒である。しかし、読後、本の『沈黙』は、これはキチジローの物語だと感じさせられるが、観賞後、映画の『沈黙』は、ロドリゴの物語だと感じさせれる。

 非常によくできた映画だったが、僕の人生において与えられたほどの衝撃を映画からは残念ながら受けなかった。スコセッシは、ロドリゴに自分を重ねながら、原作を読んだのだろう。

 そして、この文章を書きながら、僕の感覚が一般的なのだろうか?という疑問が湧いている。僕は日本人であれば、キチジローにもっとも共感しながら読むと思っていたのだが、それは、誤読かもしれない。ぜひ、意見を聞いてみたい。

 ちなみに、『沈黙』の中で僕が最も好きな文章は、下記だ。

強い者も弱い者もいないのだ。強い者よりも弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう。

 この文章についてずっと考えていたから、村上春樹の『風の歌を聞け』の中にある下記の一文に僕は惹かれ、中学時代に村上春樹を集中して読むことになった。

強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ。

 3月4日に小説家の伊東潤さんと『沈黙』の読書会をします。追加した残席わずか。

 期間限定公開の遠藤周作の講演もおススメです。


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佐渡島庸平(コルク代表)
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