第五章 引いた目線
僕たちは生きている中で自分の言葉が相手に通じない経験をたくさんする。それはそこに「ズレ」があるからだ。しかし、ズレに気づきながらも、それを深堀りすることはほとんどない。僕はそのズレは、世の中をみる解像度が違うことで生じると思っていた。でもそうではなかった。
細谷さんの『具体と抽象』を読んで、通じなさを生むのは、解像度ではなく抽象度だと気づいた。
今回、細谷さんと対談を通して「ズレ」についての深堀りを沢山した。
その内容が『言葉のズレと共感幻想』という本になって年内に出版される。
僕のブログで1章ずつ先出し公開中。
政治家の視点
佐渡島 一歩引いた目で見ただけで、ものごとの見え方が違ってくるということは、たびたび実感します。
子育てをしていて、子供の体の成長や言語の習得にヤキモキしたりします。他の人よりも、育つのが遅いのではないかと心配して、食事を残さないように時間をかけて声がけをしたりする。しかし、思春期がきたら、一気に背が伸びたり、今まで背が高かった人が全く伸びなくなったり。子供への向き合い方も、10年単位か、1日単位かで、大きく変わってきます。見えているものが全く違う。10年単位で子供に向き合うことが、子供を一人の人間として信頼することであり、子供の行動ごとに自分の意見を言いたくなるのは、子供ではなく、自分の不安を見ちゃっているのかなと思います。わかっていても、子供は自分が守らなくてはいけないという気持ちがうまく消せなくて、反応しちゃう。
官僚とか政治家って、50年、100年単位で思索して、実装する職業だと僕は思っています。だから、彼らの一挙手一投足に反応してたら、彼らはいい仕事をできない。数十年前の政治家の活動が、数十年後にすごく厳しく評価される様子を政治家たちに見せることで、襟を正してもらう方が、ずっといい仕事をしそうだなと僕なんかは思う。
でも、今はSNSで、細かい発言が取り沙汰されてしまう。現在は非常識に感じるけど、50年後は当たり前に感じる発言を政治家にはしてほしいって思っちゃう。衆愚政治ってなんなのかというと、みんなの意見を聞きすぎるというよりも、政治家が今を見ちゃう仕組みの中の政治だと僕は思う。そして、今の日本はそれに陥っている。
僕は、引いた目線を持った方がいい職業の人には、引いた目線で世の中に関われる仕組みを作った方がいいかなと思う。
先を見通す視点ということでは、アメリカの法律がよく考えられている、優れていると感じています。
コンテンツに関していうと、日本では著作権を製作者ではなくメディア側が持っています。コンテンツはメディアでしか出せないので、発注するのは必ず、消費者と結びついているメディアです。アメリカでもメディアが発注しますが、放送権だけのために発注していて、著作権は製作者に残る仕組みになっています。
著作権が製作者にあるので、インターネットによる地殻変動が起きてテレビやケーブルテレビの勢いが弱くなってきたときに、製作者サイドがネットフリックスなどに自由に許諾できる。だから、結構な勢いで、メディアの勢力変化が起きるわけです。
それに対して日本の場合は、テレビ系の動画コンテンツはテレビ局が全部持っているし、マンガなどのコンテンツは出版社が全部持っていて、メディアが握っているから地殻変動が起きないんですよね。マンガだって、ネットフリックスと同じようなサブスクリプションが起きてもいいはずなのに。著作権をはじめメディア関連の日本の法律を作った人たちは、こういう時代の変化を予測していなかったんでしょう。
アメリカの法律は、一見あまり意味がないように見えても、しっかり未来を見通して練られたことがうかがえます。でもそれだけ確かな予見力を持つ人が特定の専門領域にいくらもいるとは思えなくて、きっとわずかな数だと思います。そのわずか人が、今の人たちに見向きもされない、未来のために時間を費やし、未来を見越した提案が、埋もれることなく議論の中で取り上げられ採択され、社会の仕組みになっていってるのがすごいなと。
著作権の話に限らずさまざまな分野で、アメリカにはそういうルールが法律として残っていることが、国としての強さだなと感じます。
細谷 今の話で思ったことが二つあって、一つは、抽象度の高い視点ではつながりを見ているのに対して、個別の視点にはつながりがないということ。本でいえば、構成と、個別の文の違いであり、まさに編集の話ですね。構成には流れがあって、先を見通して長きにわたって読めなきゃいけないけれど、個別のほうは一個一個別々だから流れもないという違い。
もう一つは、本当に長い目で見通してそこまで読んでいたのかということと、構成と個別を概念上で分けられるかどうかということですね。
概念上二つのパーツでできているという発想ができれば、それは二つに分けられるけれど、もう完全に一体になっているかもしれない。
たとえば「会社に行く」というのと、「仕事に行く」というのは、本当は意味が違うけれども、少なくとも最近までは、会社に行くのと仕事に行くのは同じことだったわけですよね。概念上で分けてやれば、会社に行くというのは文字通り会社に行く目的があるからで、仕事に行くというときの行き先は必ずしも会社とは限らないと、個別に考えることができます。
ほかにも、電子メールが使われ始めた頃には、プライベートのメールアドレスのことを「自宅のアドレス」と呼んでいた人が少なからずいました。自宅のPCとメールアドレスとが紐づいていたからですが、今やどこででも送受信できるのに、いまだに「自宅」と書いてあるのを見かけることがあります。PCとメールアドレスが一体であるかのように固着してしまっているんですね。
その二つを切り分ける視点にひとたび気づいたら、いくらでも切ったり貼ったりができるんですけど、その視点に気づけなければいつまでも固着したままになってしまいます。
どの単位で最適化するか
佐渡島 僕は江戸末期の日本について、江戸の最後の大老たちがバカだったから不平等条約を結んでしまったりして、結果的に江戸が滅んでしまったんだとずっと理解していたんですよ。
でも、それも引いた目線で当時の日本社会を想像すると、犯罪者をそれぞれの藩ごとにさばくようなことが当たり前だったくらいだから、日本国という概念を持っている人などほぼいなかったと思うんです。それが当たり前だった状況だから、アメリカやイギリスから提示されたルールに対して、「おう、俺らはもともと藩同士でそうしているし、いいよ、いいよ」と軽く受け流したとしても不思議ではないし、国と国との外交という概念を初めて持って、その後、十年、二十年と経過する中で、国力を競い合う上でその選択が不平等だということにようやく気づいたとしても、無理もないのかなと思えるようになってきました。
人は、自分の知らない概念についての意思決定はできないですから。
現代の基準で考えるからバカなんじゃないかと思ってしまうけれど、その環境下において大老たちは優秀だったはずです。というのも、江戸幕府の制度は非常に優れていて、能力があれば二十代で大老になれましたし、かなり斬新な政治制度が敷かれているんです。
明治維新の頃の幕府については、従来の記録や物語では、賢くて未来をわかっている人とわかっていない、もうろくした人たちの構図で描かれがちですが、僕は最近、明治維新をしっかり江戸側から描いた感動物語が作れるんじゃないかと思い始めています。
守りの体制が前提にある中で、それを凌駕する時代の変化が起こることは想像できるし、それはたとえるなら、家族を守ろうと奮闘したけど時代の波にうまく乗れずに苦境に陥ったサラリーマンのようなものではないかと。その視点から哀愁を兼ねて描く明治維新の物語って、おもしろそうでしょう。明治維新という一つのできごとに対して、それに関わるそれぞれの人の悲哀がある。抽象度を上げてそれらを観察すれば、いろいろな側面から多角的に描くことができますよね。
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