斬られた首はどこにいく?『風雲児たち 幕末編』
江戸時代の死刑や切腹のシーンは、ドラマなどで誰もが見かけたことがあると思う。
では、斬首された後、首はどう扱われるかを知っている人はいるだろうか?
『風雲児たち 幕末編』を読めば、その答えが分かる。
たった2ヶ月ほど前に『風雲児たち』のレビューを書いたばかりだが、絶対にお勧めしたい本なのと、前回のレビューを目に留めてくれたリイド社から試し読みのデータをいただけたので、今回は、幕末編について書きたいと思う。
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斬首によって胴体分かれてしまった首は、柄杓の柄でつながれるそうだ。ただし、これが許されるのは、切腹のときのみ。切腹は、死刑は死刑でも武士としての名誉を尊重された死刑なので、首を継ぐことが許される。切腹でない罪人の死刑の場合、首と胴体は別々に葬られることになる。
では、首と胴体が別々とは、どういう状態か?
あぐらで座った姿勢で、自分の手で自分の首を持たされた状態になる。
『風雲児たち 幕末編』では、吉田松陰の死に際して、死刑になった場面ではなく、埋葬される場面が、ストーリーの盛り上がりとして描かれている。そのような盛り上がりの場面の選び方が、みなもと太郎ならではあり、他の歴史小説やマンガでは味わえない面白さを生み出している。
普通、作品を作る時、死刑でばらばらになった首と胴体は、どうなるのだろう?ということまで考えない。しかし、漫画家は絵を描かなくてはいけない。資料集め、脚本、演出、美術、照明、俳優、全てを一人でやりとげるのが、漫画家である。もしも、これを分担でやっていたら、細部へのこだわりが自然と薄れてしまう。みなもと太郎は、絵を描くから、自然と細部への疑問がいく。そして、柄杓の柄という細部の情報までたどりつくことができ、そのような情報が、物語の核にくるのだ。
ちなみに、埋葬されるとき、吉田松陰は全裸だった。死刑のときに着ていた服を、すべて盗まれていたのだ。(そんなことも絵を描こうとすると、何となくでは進められないので、漫画家は調べることになる)
その変わり果てた姿をみて、伊藤俊輔、後の伊藤博文は号泣し、桂小五郎、後の木戸孝允は黙々と作業をしたそうだ。
そのとき二人の胸の中でどれだけ強い感情がわき起こっていただろう。
その感情の強さは、作中では描かれない。しかし、二人のその後を知っている我々は、作品外の情報から、その時の二人の気持ちを推測できる。その時の強い感情が、二人が明治時代に様々な偉業を成し遂げる際の、原動力になったであろうと。
歴史物には、作品外の情報を読者が自分で補足しながら、より想像しながら読むという楽しみがある。『風雲児たち 幕末編』は、そんな風にしながら読むのに最適であり、淡々と描かれていても、涙が止まらない物語でもある。
多くの歴史物は、事実に沿って、歴史を語る。
みなもと太郎は、人物たちの感情にそって、歴史を語る。
歴史を、感情というスパイスで味わうと、なんと面白いことだろう。
以前レビューした『風雲児たち』についてはこちら。
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