感情の召使いではなく、主人となれ! 禅僧・藤田一照さんに聞く、愉快に生きるための「学び」
未来予測がますます困難になる世界において、「これがあれば安心」という勝ちパターンのスキルは存在しない。ただ、社会がどんな状態になろうが必要と感じるものがある。
それは、学び続ける力だ。
成功体験や知識に固執せず、起きている変化を丁寧に観察し、楽しみながら学ぼうとする姿勢を持ち続けること。この学び続ける力がある人は、どんな時代になっても適応できるし、人生自体を楽しめるはずだと僕は思う。
そして、学び続けることの第一人者といえば、仏教の祖となった「ブッダ」だ。
曹洞宗国際センター2代所長であり、アメリカで20年近く坐禅の指導をしてきた禅僧の藤田一照さんの著書『ブッダが教える愉快な生き方』には、こう書いてある。
ブッダにはでき上がった形の「仏教」などありませんでした。彼は、ただインドの大地の上で、「目覚めた人」として自由に生きていただけです。自由に生きながら、日々の瞑想で悟りを深め、自然や人々との出会いを通して、一生をかけて修行を続けた「学ぶ人」でした。
そんな彼の姿を見て、「自由だな」「愉(たの)しそうだな」と惹かれた人たちが彼の周りに集まってきたことから、サンガ(僧伽・修行者の共同体)ができていったのです。それは、ブッダを手本にして生きようとした人たちの集まりでした。
そして、藤田さんが言う「学び」とは、知識や技術などを習得するための「手段」としてではなく、生きることや日々の生活全体から「自然と学んでいく」ことを意味していて、それを「オーガニック・ラーニング」と呼んでいる。
この概念は、僕が「学び」とはこうあるべきだと思う考えに近く、オーガニック・ラーニングへの理解を深めるためにコルクラボで藤田さんと対談する機会を得た。その対談を、コルクラボのメンバーがレポート記事を作成してくれたので共有する。
<記事の書き手 = 高橋 亜樹子、編集協力 = 井手桂司>
藤田一照(ふじた・いっしょう)さん
1954年、愛媛県生まれ。灘高校から東京大学教育学部教育心理学科を経て、大学院で発達心理学を専攻。院生時代に坐禅に出会い深く傾倒。28歳で博士課程を中退し禅道場に入山、29歳で得度。33歳で渡米。以来17年半にわたってマサチューセッツ州ヴァレー禅堂で住持をつとめる。近隣の大学や瞑想センターでも禅の講義や坐禅指導を行う。2005年に帰国し、現在、神奈川県葉山を中心に坐禅の研究、指導にあたっている。2010年より曹洞宗国際センター所長。Starbucks、Facebook、Salesforceなど、アメリカの大手企業でも坐禅を指導する。
著作に『現代坐禅講義 – 只管打坐への道』、共著に『アップデートする仏教』、『安泰寺禅僧対談 』、『禅の教室』など。訳書に『禅への鍵』『法華経の省察』、『禅マインド ビギナーズ・マインド2』など。
(▼)藤田一照さんが主宰する、Web上で坐禅を学び、坐禅を実修するオンライン禅コミュニティ『大空山 磨塼寺』
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晩年になって開花する人は、何が違うのか?
佐渡島:
今日はよろしくお願いします。『ブッダが教える愉快な生き方』で藤田さんが説かれていた「オーガニック・ラーニング」という考えが印象的でした。仏教の「学び」をヒントにすれば、愉快に生きられるという話がとても面白かったです。
藤田さん:
そもそも、日本人にとって仏教は最も身近な宗教にも関わらず、「難しくてよくわからない」と言う人が多いですよね。たくさんの宗派があり、経典やら用語がたくさんあって、なんだか小難しいイメージがあると思います。
でも、仏教は難しいものでも、神秘的なものでもなく、とてもシンプルで日常生活に直結しています。
私は、仏教は「行(ぎょう)の宗教」だと思っています。「行」とは、心身丸ごとで行う修行のことです。特に、私が学んできた「禅」の世界では、坐禅はもちろんのこと、掃除や食事などの日常生活全般を修行と捉えます。生きることそのものから「学ぶ」ことが修行という考え方なんですよね。
つまり、仏教の「学び」は、学校の授業のような学びとは様相が異なります。たとえるなら、学校へ行く前の赤ちゃんの「学び」です。
生まれたばかりの赤ちゃんは、好奇心を持って周囲の物事に触れるうちに、いろいろなことを自然と身につけていきますよね。本人に学ぶという意識があるわけではなく、周りの大人も特別に何かを教えようとは思っていません。それでも2歳くらいにまでに、いつのまにか歩いたり話したりするようになります。遊んでいるように見えるけれど、そこには深い学びが自然と起きているからです。
いつどこで学んだのかは本人もわからないけれど、周りとの交流全体から自然に何かを学んでいく。このような学びを私は「オーガニック・ラーニング」と呼んでいます。
佐渡島:
確かに、「学び」というと、教科書に載ってる知識や技術を覚える「学校的な学び」のイメージが強いですよね。でも、ブッダが生きていた頃には経典なんてなく、ブッダは日々生きるなかで得た学びを人に伝えていたわけですもんね。
藤田さん:
はい。ブッダは経典を学んだのではなく、ただ生きることを学びとしました。そのブッダの生き方に倣(なら)おうというのが、禅の、そして仏教本来の立場だと私は理解しています。経典はあくまでもそのための参考書なんですよ。
私は大学で発達心理学を専攻し、子どもの成長の原理について研究をしていました。発達心理学の見方では、人間の成長曲線は、だいたい二十歳をピークに下降線をたどります。記憶力や瞬発力、筋力など、人間の能力の多くは二十歳を過ぎたら衰えるとされています。
一方、世の中には年齢を重ねてから能力を開花させる人たちもいます。特に、作家や芸術家には、晩年になってから素晴らしい作品を生み出す人が大勢いますよね。ブッダも、35歳になってから覚りを開き、80歳で入滅するまで覚りを円熟させていきました。彼らは、今の発達心理学では記述できないような次元で、発達や成熟を遂げる「学びの世界」に生きていたのだと思います。
学びを「学校的な学び」だけで理解するのは、了見が狭すぎると私は思います。私たちは、もう一つの学びのスタイルである「オーガニック・ラーニング」も視野に入れるべきで、そのために仏教はとても参考になるはずです。
「すること」ではなく、 「在ること」と捉える
佐渡島:
「学校的な学び」のイメージにどっぷりと浸かっているせいか、多くの人は「学び」について考える時に、「これは何の役に立つのか。どんな得があるのか」という損得勘定を気にしすぎているように思います。
「オーガニック・ラーニング」ができている人とそうでない人の差は何だと、藤田さんは思いますか?
藤田さん:
そもそも「オーガニック・ラーニング」って、「オーガニック・ラーニングをするぞ!」と思った段階でダメなんです。
多くの人は「学ぶ」という言葉を動詞で捉えていると思いますが、「ドゥーイング "doing"(すること)」から「ビーイング "being"(在ること)」へと頭を切り替えてください。
目的に向かって駆り立てられるドゥーイングのモードと違い、ビーイングのモードでは、ことさらやるべきこともなく、あらためて行くべき場所もありません。その代わりに、今ここに存在し起きているあらゆることに気づき、それらとゆっくり親しもうとすることが大切です。
佐渡島:
なるほど。「オーガニック・ラーニングをするためには?」という問い自体が、正解主義に縛られた「学校的な学び」の発想なんですね。
藤田さん:
そうですね。私たちは放っておくと、たいていは自分の意識的努力で、ある望ましい状態に向かって身や心を調えようとします。あたかも自分がすでに望ましい状況を知っているかのように、「トップダウン式」にそれを押しつけるのがドゥーイングのモードです。頭の中にある意識(トップ)が、身や心に強制しようとするわけです。
一方、オーガニック・ラーニングはそれとは対照的に「ボトムアップ式」のやり方です。私たちの身心(ボトム)には自己調整能力が備わっていて、自ずから調っていこうとする本来的な働きがあります。それを信頼して任せきり、その働きの邪魔をしないで従っていくことによって、自然に姿勢や心が調っていきます。
一般的に能力といえば、何かを成し遂げる能動的な能力ばかりが評価されますよね。そういう風潮の中では、「問題」を少しでも早く解決しようと焦ってドゥーイング・モードを起動させることが当たり前になってしまいます。
しかし、それでは自分の頭の中で考えたことばかりに心が向いてしまい、今ここで実際に起きていることがほとんど体験できなくなってしまいます。目覚めるということは、そのような思考の世界からはっきり覚めて、現実にしっかり足をつけて生きることでもあるんです。
坐禅を指導するときには、よく調身(ちょうしん)、調息(ちょうそく)、調心(ちょうしん)ということがよく言われます。姿勢を調え、呼吸を調え、心の状態を調えるという意味です。そうすることで、頭の中の意識で身心を操作することを手放すんです。すべての感覚機能を解放して、身の回りにある世界の豊かさと出会い続けていくのが座禅修行なんです。
感情の召使いではなく、感情の主人になれ!
佐渡島:
僕は瞑想することで、自分の内側や外側で起きていることに対して、ありのままの姿を観察しようとしています。ただ、そういう観察を妨げるのが、怒りやイライラといった「感情」や情動的な「欲望」だと思っています。
藤田さんの本にはブッタは「悪魔と出会わない超人」ではなく「悪魔ときちんと出会える人間」と書かれていましたが、感情や欲望とは、どう付きあっていけばいいと思いますか?
藤田さん:
私はマサチューセッツ州の小さな坐禅堂で17年半、坐禅を指導していましたが、そこでも「怒りっぽい性格に困ってます」とか「禅を習えば、心が穏やかになって、人間関係を壊さないと聞いたのに自分はできません」という相談をよく受けました。
感情というのは一方的にコントロールしようと思うと、必ず反発が出てきます。
「怒っちゃいけない、怒っちゃいけない」と無理やり抑圧しようとしている人ほど、絶対に怒りますよ。そもそも感情や欲望を一方的に否定したり、無視しようとすることは、不自然なんです。かといって、それらに呑み込まれて自分を見失ってもいけません。
では、どうしたらいいのか?
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