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「二番目に好きな女」が一番好き  『鼻下長紳士回顧録』完結に寄せて

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 先日、知人の心理カンセラーからある話を聞いた。

「御巣鷹山の救助隊が、当時のことを最近、語り出している。彼らが語り出すのに30年かかった。」

 苦しみや悲しみが大きかった時、反応が現れるのに、それだけ時間がかかってしまうのだ。

 安野モヨコが、鬱になり、体調を崩し、10年近くの時間が経った。『鼻下長紳士回顧録』を描き始めたのが6年前。描き始められた時、ここまで回復することができたと手を取り合って喜び合った。でも、そこからが長かった。

体調を崩す前は、2、3本の連載を同時に進めるのが当たり前だった。『オチビサン』を毎週連載していたものの、上下巻2冊の『鼻下長』を描き進めるのに、6年という時間を費やす必要があった。

描き始める前の4年間は、本当に大変だった。僕もどうやって時間をやりくりしていたのか、記憶がない。なんとか時間をつくって、鎌倉の安野モヨコの自宅に、2日に1回ほどのペースで会いにいっていた。仕事はできない。打ち合わせのような雑談をするだけだった。

いつまでも描かれることのない作品に対して、打ち合わせのようなものを続けた。もう二度と安野さんは作品を描かないかもしれない。そんな考えが、僕の頭の中に何度もよぎった。でも、ずっと会い続けた。

そして、なんとか漫画を再開してもらおうと、気負うことなくかける馬鹿らしい話を描こうと提案した。そして、安野さんから出てきたのが、娼館でピヨピヨと言いながら、ワセリンを体に塗りたくって、ヒヨコのふりをする変態紳士の漫画だった。実は、一番はじめにできた一話目では、その紳士は、監督そっくりだった。それを読みながら、安野さんと僕は、たくさん笑った。それを何度も描き直す中で、変態紳士は監督ではなくなった。そのネームをペン入れまでして完成したのに、安野モヨコは全ボツにした。

そして、今の『鼻下長紳士回顧録』の1話目ができた。それを読んだ時に、僕は、改めて安野モヨコは、天才だと思った。どこまでも、自分の心とを向き合っていたからだ。はじめのネームは面白い出来事を描いているものだった。直したものは、自分の心を吐露しているものだった。

安野モヨコは、作家としての自分を見失っていた。自分は作家としてどうなりたいのか、なぜ漫画を描きたいのか、を答えることができなかった。新人の時のように無邪気に売れるために描きたいとは思えなかった。どうやっても、自分の中に、漫画家としての欲望の形を見つけることができなかった。漫画家としてだけではない。一人の人間として、どのような人生を生きたいのか、答えがわからなくなっていた。

それは、まさに娼館にいて、人生に何の希望も持っていないのに、何一つ努力しないコレットと同じだった。安野は、変態を描いて、揶揄しているのではない。自分の欲望に正確な名前をつけて、輪郭を知っている変態に憧れて、その姿を描写していた。

自分の欲望がわからなくて、わかることを切望していた。

編集者は、作家のそばにいて、日常も知っている。たくさんの会話をして、本音を聞いている。でも、物語を通しての方が、この人の本音に触れることができたと感じる時がある。その時に、編集者は作家に惚れる。

『鼻下長紳士回顧録』は、僕が安野モヨコが天才だと改めて思い、惚れ直すきっかけになる作品だ。

多くの人は、この作品をどのように読むだろう?

僕は鬱病との戦いの素直な告白として読む。すべてのセリフが、安野モヨコの心の中で起きた葛藤から出てきたものとしてしか僕は読めない。物語を読んでいる感じではない。手記を読んでいるような感じが僕にはする。

「鬱病患者は、溺れている人だと思ってください。近くにいる人を、助かりたいと思って引っ張り込んで、一緒に溺れてしまいます。溺れる人を助ける時に、近づきすぎてはいけないと同じです。」ということを、心理カウンセラーから言われた。

この10年間、一緒に溺れてしまわないようにする、というのが、僕の考えていたことだった。安野さんにいろんなことを言われた。すべて、溺れる人がつかむ手のような言葉だと考えて、頭の中で変換して、理解した。うまく理解できないときは、向き合い方を心理カウンセラーに相談した。

安野さんのそばにいると、病気のせいで混乱しているのはわかる。でも、やっぱり心の中で起きていることは本当には、理解できない。『鼻下長紳士回顧録』を通して読むことで、はじめて、僕は本当に安野モヨコの心の中で何が起きていたのかを理解する。

心情の告白として『鼻下長紳士回顧録』を読むと、この10年間の苦労の気持ちが溶けていく。

カルメンの部分を、僕は穏やかな気持ちで読むことができない。この錯乱状態。それこそが、まさに心の中で、安野モヨコが戦っていたものなのだ。カルメンは、物語を面白くするためのキャラクター、装置ではない。まさに、カルメンが、この10年間の安野モヨコだったのだ。

カルメンとコレットは、安野モヨコの心の中の陰と陽だ。その両者が、どちらも「物語る」という行為によって、自分の居場所を知り、混乱を抜け出していく。

多くの読者は、作家になるコレットを安野モヨコの分身だと思うだろう。でも、僕は、カルメンとコレット、その二人が物語の力で救われていることが重要だと思う。

この作品は、振り返りとしてではなく、進行形としての闘病記だ。

この作品を描きながら、安野モヨコ自身も、救われた。もしも、このような作品を描かなければ、鬱との戦いは、もっと困難で複雑なものになっていただろう。

『鼻下長紳士回顧録』は、新しい安野モヨコの産声となる作品だと、僕は思っている。

 描きおろした,はじまりの4ページは、こちら。

ぜひ、続きを特装版で読んでみてほしい






有料部分は、鼻下長を読んで思い出した個人的な思い出について。

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