第八章 一生続く「無知の知」
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第八章 一生続く「無知の知」

佐渡島庸平(コルク代表)

僕たちは生きている中で自分の言葉が相手に通じない経験をたくさんする。それはそこに「ズレ」があるからだ。しかし、ズレに気づきながらも、それを深堀りすることはほとんどない。僕はそのズレは、世の中をみる解像度が違うことで生じると思っていた。でもそうではなかった。

細谷さんの『具体と抽象』を読んで、通じなさを生むのは、解像度ではなく抽象度だと気づいた。
今回、細谷さんと対談を通して「ズレ」についての深堀りを沢山した。
その内容が『言葉のズレと共感幻想』という本になって年内に出版される。
僕のブログで1章ずつ先出し公開中。

「頭が悪い」という悩み

佐渡島 「知識」って、その言葉の意味を理解しているということではなく、体感として理解していて、血肉になっていることだと思うのです。
 「不惑」という言葉の意味は、ずっと知っていました。でも、知識にはなっていなかった。四十歳になったときから、ずっと「不惑」という言葉について考えています。不惑って何なんだろうと。そして、最近になってちょっとわかってきた気がする。
 三十歳の頃には、不惑というのは文字通り惑わなくなることで、「どうしますか」と尋ねられたら、「こうです」と明確に意思決定できる強さが生まれてくることだと思っていました。世の中の仕組みを知っている大人になる。でも実際に四十歳を迎えてどうかというと、未だに自分自身を的確に観察することも、ましてや他人を観察することもできない。世の中の仕組みなんて、全然わからない。僕がイメージしていた不惑とは程遠い。
 僕は十代の頃、自分は頭が悪いと思っていて、悩みでもありました。思考がきれいに整理できないし、数学的思考が苦手で、どうしたらもう少しマシになるのだろうと考えていた。
 それが大学二年の頃、晴天の霹靂。驚天動地とでも言うべき変化が起きて、そのことに気づいた時は、心の中でウォー! と叫ぶぐらいでした。「頭が悪い」というのは、自分の状態を雑にラベリングして、思考が停止している。僕は、自分の能力に何かが足りないと思っている。それを頭が悪いで終わらしている。論理的思考をするためのフレームが足りない。認知心理学の知識が足りない。そんな風に言葉にできると、それを積み重ねるための方法を学べる。頭が悪いという悩みへの解像度が上がって救われるような気がして、興奮したのです。
 東大に行きながら、頭が悪いと悩むというのは、贅沢で嫌味な悩みのように思うかもしれません。しかし、その世間からすると矛盾する状態は、受験での成功は幻想で、自分は偽物だということがバレるのではないのかという不安のもとでの生活でした。自分の雑なラベリングにより、自分を不必要に責めていた。
 人の学びには、細かいパラメーターがたくさんあるということに気づきました。自分に対するパラメーターが増えると、他人のパラメーターも見えるようになってきて、さらに自分のパラメーターについていくつかのあきらめも感じられるようになってきました。自分はこういう方向では結果が出せているけど、こちらは無理だ。得意な人をみつけよう、となってきた。
 自分をある程度知ることによって、あきらめがつくようになる。若いときには思い至らなかった発見です。それで、気づいた。不惑というのは、世の中を知って惑わなくなるのではなくて、自分を知って自分の身の振り方に惑わなくなることなんだ、と。自分を知って、自分の社会での活かし方がわかる。そのシンプルすぎることに到達できるのが、やっと40歳なのだと。
 この発見で、不惑については以前から言葉としては知っていたけれど、やっと真の意味で自分の知識になったな、と思えました。ドラクエの主人公が道具を手に入れるような感じで、この概念を自分のものとして他人に説明できるようになったぞ、と感じられた。自分の中で咀嚼して血肉にできて知識になる。そんなふうに知識を捉えていますね。
 四十歳くらいにならないと、その諦観に到達できないということなんでしょう。それ以前の僕にとっては、不惑は言葉で知っているだけで「知識」ではなかった。今は不惑という概念が自分の知識になり、気負わなくなりました。新しいものを求めようという気持ちが薄れて、逆に、過去のものを現代的なインターフェースにすることに関心が湧いてきて、そういう仕事をしたいと思うようにもなりました。だから現代のインターフェースを理解したいし、それによって過去のものを表現し直そうとすることで、きっとまた新たな知識が得られると思っています。

細谷 自分の中で昇華させていく感じなんですね。知恵に近い知識だと思いますが、そういう類の知識ならばAIの出番はなさそうです。
 私は五十代ですが、二十代、三十代、四十代、五十代でそれぞれ何が変わったかというと、記憶力とそれに対する自分の態度ですかね。
 二十代では、話したときの状況も含めて、誰に何を話したかをほとんど覚えていました。三十代になると、「あれ? もしかしてこの話はすでにこの人に話していたかな」と話しながら気づいて、あとでちょっと後悔したりすることが出てきました。
 四十代になるとその頻度が高くなって気にならなくなってくる。確信犯で同じことしゃべってやろうみたいな余裕も出てきて、まさに惑わなくなる。五十代になってからは話の途中で、「あれ? 今何の話してたっけ?」となってしまうなんてことがあったり。良くも悪くも忘れる。そんな開き直りみたいなのがありますね。

佐渡島 同じことを話すのは悪いことじゃないと思っています。
 コミュニティを運営していて気づいたことなんですけど、コミュニティでは会話による毛づくろいが重要で、つまり会話の質ではなく会話の量が多いことが望ましいんです。
 ではどんな話をたくさんすればいいか。アイスタイル(@cosme)の吉松徹郎さんが教えてくれてハッとしたことなんですけど、人は新しい会話はあまり楽しいと思わなくて、同じことを違う人に話していくのが楽しいんだそうです。
 できるだけ違う話をするほうがいいに決まっていると僕は思っていたし、それを疑いもしませんでしたが、意識的に同じ話をあちこちで繰り返し話すようにし始めて、その時の自分を観察しました。やってみると、話すたびに話をリバイズできて、面白い。場ごとに違う話をするよりも、同じ話をすることの面白さに僕も気づきました。
 自分ではおもしろいと思って話したのにウケないことがあるじゃないですか。でもその話をリバイズしてまた別のところで話すと、今度はウケたりするんです。そうこうしているうちに、その話は自分の持ちネタのようになってくるし、持ちネタのレパートリーがいくつかたまると嬉しい。
 コミュニティにおいては特に、「同じ話を違う人に繰り返し話す」ことの効用があります。コミュニティを運営していると、コミュニティ掲示板を整理したほうがいいというアドバイスをもらうことがよくあるんです。どこに何があるかわかりやすいよう、整理したほうがいいよと。すぐにわかるようにしたら、もっと人が動くと。
 でも、逆だと思ってます。確かにパッと見てわかる状態のほうが、コミュニティに新しく加入した人に親切かもしれないですけど、掲示板がちょうどいい具合に整理されていなくて新人さんにはわかりにくくて、そのためにいちいち誰かが、ああそれはここにあるんだよ、それはこういう経緯でこうなっているんだよ、と説明のために話し合いが生まれるというプロセスが生じて会話量が増えたほうがいいコミュニティなんじゃないかと。
「ググレカス」と言うのは簡単だけど、そうではなく、来る人来る人が同じことを聞いて、それに毎回答える人がいてもいいし、それも大事な役割だし出番なんじゃないか。整理され過ぎはコミュニティのコミュニケーションを阻害するんです。まあ、そうかといってあまりぐちゃぐちゃ過ぎても困るので、ちょうどいいバランスを探っている最中ではありますが。

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佐渡島庸平(コルク代表)
コルク代表・佐渡島のnoteアカウントです。noteマガジン『コルク佐渡島の好きのおすそ分け』、noteサークル『コルク佐渡島の文学を語ろう』をやってます。編集者・経営者として感じる日々の気づきや、文学作品の味わい方などを記事にしています。