ブレード1

純文学とエンタメを分けるもの

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 『ブレードランナー2049』は、傑作だった。僕はここでストーリーの何がどう素晴らしかったを語るつもりはない。どんな映画かは自分で確認してほしい。全ての人に観にいくことを自信を持って推薦できるほど、傑作だった。

 素晴らしい作品を観ると、作品作りに関わっているものとして、悔しくなってくる。なぜ、自分はこちら側で指を加えて他人の作品を観ているのだ?  なぜ、このレベルの作品を自分は作ることができないのか?

 『ブレードランナー2049』をいい作品にしているものは何なのかを僕は観ながら考え続けた。

 いい物語は、ヒーローズジャーニーであると言われる。主人公は、旅に出て、課題を見つけ、そして課題を解決して変容し、戻ってくる。僕もその型を意識して、編集する。主人公がA→A'になるために、エピソードを考える。

 しかし、観ている間に僕は「主人公が自分が何者かを知りたいと思い、探索し、自分を知る」のがいい物語なのだと定義を更新した。

 Kは自分がレプリカントであることに疑問を持っていないところから、物語は始まる。しかし、自分が何者であるかを知りたくなり、自分のルーツをKは探り出す。そして、自分が何者であるかを理解し、生きる意味を見つける。主人公が、自分を知る過程を読むことで、読者も自分自身を知るようになる。それが文学の力だ。

 僕が以前、編集した平野啓一郎の『空白を満たしなさい』は、主人公が自分の中にある謎を追い求める物語で、上記の定義通り、タイトル自体もそれをすごく直接的に示していた。

 いつもエンタメと純文学を分けるものは何か悩む。平野啓一郎の作品は、どんどん読みやすくなり面白いので、エンターテイメントとも言える。しかし、確実に純文学でもある。何が違うのか?

 エンタメは、謎を解いたり、対決があったりする。もしも、謎が解けたり、勝負が決まるだけであれば、エンタメ。推理小説が、どこまでいっても推理小説でしかないのは、トリックなどに価値が置かれていて、人の変化に価値が置かれていないからではないか。物語の中で、自分を見つける行為があれば、純文学だ。

 『スラムダンク』は、桜木花道という男が、自分を知っていく物語である。だから、エンターテイメントでありながらも、純文学のような重みを同時に持っている。『ドラクエ』が、人生を学ぶことがあるゲームだと言われるのは、職業を選んだり、どんなチームで戦うといいかを考える行為が、自分を知る行為でもあるからではないか。僕の中では『スラムダンク』も『ドラクエ』も純文学と同じだったのだけど、この定義ならしっくりくる。

 『ブレードランナー2049』を観ながら、僕は刺激をもらいつづけ、作家とどんな打ち合わせをしようかとぐるぐる考え出した。そして、観終わったらすぐに作家に、ぜひ観てください!と連絡をした。

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