「ヤバい」から「エモい」へ。言葉から浮かび上がる時代の変化

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言葉は、集団の無意識が、現実に表出したものだ。ほとんどの流行り言葉は、水泡のようなもので、現れては消えていく。でも、一部の言葉は、社会がどのように変化しているのかを指し示してくれる。

数字の指標よりも、一つの言葉が雄弁に社会の変化を示唆することもある。

「ヤバい」も「エモい」も、僕は好きな言葉ではない。書き言葉では基本、使わないし、「エモい」は自分で言うこともほとんどない。

でも、コルクラボのメンバーが、よく「エモい」と言う言葉を褒め言葉として使う。会ったばかりの頃は、「ヤバイ」と言っていたような場面で、「エモい」と言う。

この変化は、何なのだろう? 半年ほどずっと考えていた。

「個の時代がやってきている。誰もが、主人公である時代が。」そう言った言説は、技術の進化面から語られることが多い。

そのことが、「ヤバい」から「エモい」への言葉の変化の中に凝縮されている。

「ヤバい」は、雑な言葉遣いではあるが、最高の褒め言葉でもある。僕は、「ヤバイ」作品を生み出そうと努力している編集者だった。

先輩編集者から「全力で作品をづくりをしろ。本を出したら、倒れこむ。それぐらい全力を尽くせ。そして、倒れた後、匍匐前進で前に進め。そうやって、ちょっとでも前に進めた作品だけが大ヒットになれる」とアドバイスをされたことがある。

ヤバくなるためには、極端であることが重要だ。いい作品、悪い作品と言う価値基準があり、その価値基準の中で圧倒的な努力をして、高みを目指す。それがプロで、その努力をする人が憧れだった。

「ヤバい」は、価値基準が自分の外にある。例えば、「ヤバいくらい金持ち」と言ったら、その人はすごい量のお金を持っている。量が極端であることを意味していて、量が基準になっている。

「エモいくらい金持ち」と言うことはできない。「ヤバい作品」「エモい作品」と、作品には、両方つけることができるのに、金持ちとか、暑い、とか基準が明確で測れるものには、「エモい」という言葉が使えない。

「ヤバい」という言葉には、自分の外に価値基準があるという認識が含まれている。「ヤバい美味しさ」「ヤバいかっこよさ」という時には、その言葉を使う人の中で、何がいい美味しさなのか、何がいいかっこよさなのかの基準がある。

ネット以前は、素人が作品の良し悪しについて語ることが憚られた。自分の意見や感情なんてとるに値しないもので、しっかりと勉強して語る資格のあるものだけが語っていいという空気があった。語るためには、賞をとっていたり、資格を持っていたりする必要があった。

ネットの中では、誰もがフラットだ。全ての人の意見、感情に価値がある。それぞれの人の感情が動いたこと自体に価値がある。「エモい」とは、自分の心は動いたよ、という表明だ。価値基準が、自分の外ではなく、中にある。

一時期、本の帯で「確実に泣ける!」「最後のドンデン返しに驚愕する」という言葉が踊った。プロの編集者であればあるほど、そのような言葉遣い、作品づくりの工夫を嫌がった。泣けるや驚くことは、嘘をつかない。知識がない読者にとっても起きることだ。

読者の心が動くことを、作品の質の担保として認め出したから、そのような帯文が使われ出した。実は、それは「エモい」という言葉が生まれる兆候として変化だったと言える。

「エモい」は、価値基準が各自の中にある。技術進化の中でパーソナライズ化と言われることがあるが、感情面でも同じ進化が起きているということだ。

自分を犠牲にして努力している人にとって、大義のために身を投げうって戦っている主人公の物語は「エモい」。また、日々の暮らしを大切にしたいという人にとって、小さな出来事に幸せを見つけようとする主人公の日常は「エモい」。

「エモい」を感じる対象は、それぞれの立脚している価値観によって全く変わる。

「ヤバい」作品は業界全体で定めることができたが、エモい作品は業界全体で定めることができない。賞などの権威が力を失ってきていて、「エモさ」が共通しているDJがモノを選択する時の助けになるのも、このように考えていくと必然の流れだ。

メディアからキュレーター、DJの時代へ。このことも「ヤバい」から「エモい」への変化で説明できてしまう。

僕の編集方針も大きく変わってきている。以前は、なんどもダメ出しして、叩き鍛えることで、「ヤバい」作品を作ろうとしていた。

今は、作家の良いところをどんどん褒める。それで、作家がよりさらけだそうと思う心理的安全を作る。そうすることで、「エモい」作品になりやすくなる。

「エモい」作品を繰り返し作りながら、「ヤバく」なるようにゆっくりと磨いていく。最近の僕は、「ヤバくてエモい」作品を生み出したいと考えるようになってきたのだ


・・・

今回の「ヤバい」から「エモい」へという社会変化を考えるキッカケをくれたのは、慶應大学教授の宮田裕章さんとの会話だった。

宮田さんは「多様なバリューを持った人たちによって、コクリエーションの社会が生まれる」と未来を予言をしている。そのことをどうやったら、わかりやすく伝えられるだろうかと議論していたら、「ヤバい」と「エモい」の差に気づくことができた。

レオナル・ド・ダヴィチの名画モナリザは、多くの評論家が、どのような形容詞でそのすごさを説明すればいいかわからなくて、適切な言葉がないと言われている。かっこいい、美しい、綺麗、ヤバい、そのどれもが少しずつずれている。でも、エモいはぴったりくる。

多くの人に様々な感情を呼び起こす不思議な微笑は、何とも「エモい」絵なのだ。ダヴィンチが活躍したルネサンスは、精神史でみても、大きな変化のあった重要な時期だ。同じような精神の変化がこれからまた起きる可能性がある想定すると、ダヴィンチが何を考えていたのかを丁寧に辿り直すことは、今の時代を理解するもっとも早道になるかもしれない。

cakesに掲載されている宮田さんのインタビュー、かなり面白いので、おススメです。

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