
何のために作品をつくるのか。創作の“根っこ”にある想い
「文学とは、読者に寄り添うもの」
これは、小説家の平野啓一郎さんの言葉だ。世の中が殺伐としていても、あるいは深い孤独の中にいても、物語の世界に居場所がある。読者にとって生きる糧だと感じられるような作品をつくりたいと、平野さんは語っている。
ぼく自身にとっても、文学とはそんな存在だ。
以前投稿した『作品づくりの“根っこ”にある、南アフリカでの3年間』というnoteに詳しく書いたが、ぼくが文学から大きな影響を受けはじめたのは、南アフリカで過ごした中学生時代にさかのぼる。
1990年代前半の南アフリカは治安が悪くなり始めていて、当時のぼくの妄想は、女子のことではなく、強盗が家にやってきた時のことだった。
身近な人の中にも、強盗で亡くなった人もいた。住んでいる家の中には赤外線センサーが張り巡らされ、朝になるまでは自分の部屋とトイレ以外を行き来することはできなかった。
強盗が家を襲撃する場面を妄想するたびに、ぼくの心には遠藤周作の『沈黙』に登場するキチジローの姿が浮かんだ。強盗の前で、ただ命乞いをする自分。周りを助ける勇気など持ち合わせず、ただ自分のためだけに行動する姿を想像した。
ぼくはキチジローだった。そして同時に、そんなキチジローを許せないと思う自分でもあった。だからこそ、「どうすれば精神的に強くなり、恐怖に支配される弱い自分から抜け出せるのか」と考えた。同時に、キチジローを許し、受け入れることができるのも、また一つの強さだと思った。そのような強さを持てる自分になりたいと思うようになった。
遠藤周作の多くの作品が描いているのは、人間の根本的な弱さや、その弱さとどう向き合うかだ。作品に触れるたび、遠藤周作自身も、自分と同じような悩みや葛藤を抱えていたのだろうと感じる。そして、こうしたことを悶々と考え続けているのは、決して自分一人ではないのだ、と。
人間は、それぞれで生まれも育ちも異なり、それぞれ固有の状況を生きている。多くの人が共感できる悩みや葛藤もあれば、その人だけが抱える特別な感情もあるだろう。誰とも連帯できないような感情を託し、静かに受け止めてもらえる場所。それこそが、文学ではないだろうか。
「南アフリカにいる中学生のぼくに届けるつもりで作品をつくる」
これが、ぼくの編集者としての根っこにある想いだ。誰とも連帯できないような感情を抱え生きている人に向けて、その孤独に少しでも寄り添えるような作品を届けたい。
今年の正月、難病と闘う従兄弟と久しぶりに話す機会があった。その時、彼の言葉に耳を傾けながら、この想いを思い出した。
彼は40代を迎えた頃、日本にわずか600名程度しか患者がいない難病を発症した。しかし、珍しい病気だったため、病名が診断されるまでに、1年以上もの時間がかかった。仕事はおろか、日常生活さえもままならない中で、「この先どうなってしまうのだろう」という不安だっただろう。
難病によって、彼の人生は一変した。珍しい難病を抱える彼にとって、その苦しさを共有できる人はほとんどいない。彼の抱える孤独は、一体どれほどのものなのだろう。
同じ状況を経験したことのないぼくには、彼の苦しさを完全に理解することはできない。それでも、その孤独を少しでも癒したいと願う中で、ふと心に浮かんだのは、物語を届けるということだった。
昨年策定したコルク創作6箇条の中に、「ただ一人、深く届ける相手を定める」という言葉がある。その言葉が、正月に従兄弟と話したあの日以来、胸の奥で静かに響いている。ぼくにとって、作品を深く届けたい相手の1人として、従兄弟の存在が強く刻まれたのだ。
自分は何のために作品をつくるのか。その原点にあるものが、改めて鮮明になった正月の出来事だった。
ちなみに、従兄弟が自分の難病支援とティシャツを売ってるので、応援したいと思ってくれた人はこちらへ。
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『宇宙兄弟』『ドラゴン桜』などのマンガ・小説の編集者でありながら、ベンチャー起業の経営者でもあり、3人の息子の父親でもあるコルク代表・佐渡…
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