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“わかりやすさ”の時代に、作家はいかに応えるか

現代のエンタメは、一瞬の勝負にさらされている。

スマホの画面を前にして、指が止まるか、スクロールされていくか。その刹那の判断で、観客の心を掴めるかどうかが決まってしまう。次々と押し寄せるコンテンツの波の中で、かつてないほど「瞬発力」が求められている。

その瞬発力を生むために、欠かせないのは「わかりやすさ」だ。

複雑な設定や入り組んだ展開は、受け手を迷わせてしまう。シンプルで直感的な表現によって、読者は瞬時にコンテンツに引き込まれる。「わかりやすさ」と「続きが気になる」工夫を施すことで、観客の目をコンテンツから離れないようにする。

コルクマンガ専科でも、このことを繰り返し伝えている。

たとえば、32ページほどの読み切り作品を描くなら、最初の数ページで「どんな物語なのか」を読者にしっかりと伝えなければならない。作品のジャンルや舞台の設定、主人公が抱える課題、周りのキャラクターとの関係性。こうした要素がスッと読者に入っていかなければ、その先を読んでもらうことは難しい。

とはいえ、「わかりやすい」物語の冒頭を描くことは決して簡単ではない。新連載の第1話のネームが一発でピタッと決まることなど、まずないのだ。満足のいく仕上がりになるまで、時には1年も修正の時間がかかることもある。

しかし、作家もぼくたちも、わかりやすいものが作りたいわけではない。複雑なことを複雑なまま理解するために、物語を紡いでいる。作品のテーマの深さを大切にしながら、多くの読者にとって受け取りやすいものにする。

この矛盾していることの両立をどう図るかが、作家と編集者が、今の時代に向き合うべき問いだ。世の中にある様々な作品を見ていても、「この両立ができているか」という視点でつい眺めてしまう。

つい先日、発売開始となった平野啓一郎の最新短編集『富士山』は、まさにその両立が見事なまでに完成された作品だと感じさせられた。

「あり得たかもしれない幾つもの人生の中で、何故、今のこの人生なのか?」

これが本の帯につけられたキャッチコピーで、人生における「偶然性」をテーマにした5篇が収められている。

平野さんはこれまで一貫して、「努力していない人が貧しいのは、しょうがない」といった自己責任論に異を唱えてきた。人生がどのように形づくられるかを考えれば、育ってきた環境など、数多くの要因が複雑に絡み合い、それは努力の有無だけでは到底説明できない。

実際、運や偶然といった「たまたま」が人生に及ぼす影響は大きい。そのことを自覚すれば、成功している人は「俺の実力でこうなった」ではなく「たまたま運が良かった」と謙虚な気持ちになれるし、うまくいかなくても自分を責める必要はなくなる。

自分や他者への見方を変える意味でも、偶然性に対する感受性を取り戻すことが大切だと、平野さんはインタビューで語っている。

平野さんの場合、短編の場合は事前打ち合わせなどはほぼなしで、完成したものを読ませてもらう。なので、今回の作品に関しては、ぼくは読者と近い立場だった。

そして、純粋にその完成度の高さに唸ってしまった。実験的でもありながら、今後の平野さんが取り組む新しいテーマを見え隠れする。さらに、どの短編もべらぼうに面白い。

とにかくすごいと思ったのは、各作品の「わかりやすさ」だ。純文学でありながら、キャラクターや設定、テーマがすっと頭に入り込んでくる。

例えば、表題作の『富士山』は、マッチングアプリで知り合った男女が新幹線で旅行に出かけるという物語だが、冒頭のわずか2ページで登場人物のキャラクター像がすんなりと理解できる。

例えば、この部分。

“そんなことに、もうじき四十歳になろうかという自分が、今まで一度も気がつかなかったことに、まず呆れた。そして、自分の忙し過ぎる生活を思った。出世して給料が上がり、生活にはゆとりがあるが、ずっと結婚したいと思っているのに未婚で、何となく、いつも疲れている。それが、彼女がサマライズする自身の生活の現状だった。”

最後にある「彼女がサマライズする自身の生活の現状だった」という一文が特徴的だ。

神の視点の三人称で描かれているが、その文体は「サマライズ」というような言葉遣いはしない。三人称でありながら、サマライズは、彼女のボイスであることが読者には伝わる。

そして、彼女は、サマライズという言葉を日常的に使う、直前の文章で「出世して給料があがり、疲れている」と描かれているが、サマライズという言葉を日常的に使うような働き方をしているキャリアウーマンだということが伝わってきて、この女性のキャラクター像がニュアンスまで含めて伝わってくる。

最低限の文章で、伝わってくる情報量がすごく多い。

この引用した箇所のような細部の描写の技術が、今の時代に対応していて、瞬間的なわかりやすさと情報量が両立されている。だから、短編でありながらも長編のような読み応えがある。

純文学として、普遍的でありながらも時代性のあるテーマを扱い、それを難解にすることなく多くの人に受け入れられる作品に仕上げている。このレベルの小説を書いている現役の小説家は、世界を見渡してもいないと思う。

ちなみに、この前ノーベル賞を受賞したハンガンさんと平野さんが対談をしていて、見応えがあるので興味を持った人はこちらもどうぞ。

この『富士山』という短編集は、本好きの人におすすめだけれども、新人クリエイターにはぜひ読んでほしい。創作について学ぶところがたくさんあると思う。平野さん本人による作品の解題をするイベントもある。同時代に生きている喜びを味わえるので、興味が湧いた人はこちらもどうぞ。

そして、ぼく自身も文学作品の読書会をしている。11月11日夜7時からオンラインで。興味がある人はこちらもどうぞ。

今週も読んでくれて、ありがとう!この先の有料部分では「最近読んだ本などの感想」と「僕の日記」をシェア。

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表では書きづらい個人的な話を含め、日々の日記、僕が取り組んでいるマンガや小説の編集の裏側、気になる人との対談のレポート記事などを公開していきます。

『宇宙兄弟』『ドラゴン桜』などのマンガ・小説の編集者でありながら、ベンチャー起業の経営者でもあり、3人の息子の父親でもあるコルク代表・佐渡…

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