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繰り返しの中に見出す、満たされる喜び

ぼくにとってのマドレーヌは、チューペットだった。

プルーストによる小説『失われた時を求めて』では、マドレーヌを食べた時の衝撃をこんな風に表現している。

「瞬間、私は身震いした。何か異常なものが身内に生じているのに気づいて。なんとも言えぬ快感が、孤立して、どこからともなく湧き出し、私を浸してしまつているのだ」

ここまで、衝撃的な感覚ではなかったが、同じようにぼくの中を幸福感が満たしていることに気がついた。

息子と一緒にお風呂に入っている時のことだ。

暖かくなってくると、お風呂でアイスを食べる。ぼくがアイス好きなのもあるが、お風呂に入りたがらない息子たちを風呂場へ誘導する策略として生まれた習慣だ。最近、息子がどこかでチューペットを食べて気に入ったらしく、我が家の冷凍庫にも常備されるようになった。それで、その日はアイスではなく、チューペットを食べていた。

湯船に浸かりながらチューペットを食べていたら、ふとした瞬間に、手にしたチューペットがタイムマシンのように働いた。ぼく自身が子どもだった頃、親からチューペットを渡され、温かいお風呂の中でそれを嬉々として食べていたことを思い出したのだ。

その記憶は、幸せな気持ちに浸らせてくれた。純粋に「懐かしいなぁ」という気持ちだったり、「親にしてもらったのと同じことを、自分も息子たちにしているんだなぁ」という気持ちだったり、色々な感情が混ぜこぜになって、何ともいえない幸福感があった。

それはまるで、子どもの頃に読んで感動した本を、随分と時間がたった後に、大人になって再び開くようなものだ。

大人になって読み返すと、子ども時代には感じることのできなかった新たな感動や見えなかった視点を見つけることができる。その感動は初めて読んだ時とは違うかもしれない。だが、子どもの頃には理解できなかった事柄や、自分の経験からくる理解が混ざり合い、新たな風景を描き出すのだ。

一見、繰り返しと見えるものの中に、新しい喜びを感じとることができる。繰り返しは、退屈と結びつくように思われがちだが、幸福とも密接な関係にある。

斉藤和義の『幸福な朝食 退屈な夕食』という曲の歌詞に、「今歩いているこの道が、いつか懐かしくなるだろう」というフレーズがある。今の自分としては特に語るようなものでもない些細なことが、自分の心を豊かにするリフレインとして、いつか懐かしさを感じる瞬間が来るかもしれない。

新しいことよりも、繰り返しの中にも目を向ける。若い時のぼくがこの発言を聞いたら、自分が年老いた考え方をしているとちょっと小馬鹿にして笑ったと思う。

でも、ぼくは、若いぼくに教えてあげたい。年老いたという感覚より、年とともに成長して、人生を味わう豊かさを身につけた結果だよ、と。ぼくは、自分の心の襞のあり方が、良い方向に変化していると感じている。


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『宇宙兄弟』『ドラゴン桜』などのマンガ・小説の編集者でありながら、ベンチャー起業の経営者でもあり、3人の息子の父親でもあるコルク代表・佐渡…

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