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「メディアと市場のAIDA(あいだ)」とは何か?

昨年10月から、松岡正剛さんが主催する私塾に参加している。

以前、「具体と抽象を行き来する鍵、”AIDA(あいだ)”」というnoteに詳しく書いたが、編集者として20年近く働くなかで、「編集とは何か?」を改めて学び直したいと思ったからだ。

この塾の名前は『AIDA(あいだ)』。

この「AIDA(あいだ)」という概念について考えたことが今までなかったが、まさに僕が知りたいと思っていた、抽象と具体を行き来するのをサポートする概念だ。何かと何かの間(あいだ)を見ようとすると、俯瞰をしないといけない。自然と具体と抽象の行き来が生まれ、視点を変えれる。

この塾は半年をひとつのシーズンとし、松岡さんが設定したテーマに基づいたプログラムを行う。そして、最後にそれぞれが自分の考えを発表する。

ぼくが参加している今シーズンのテーマは「メディアと市場のAIDA」だ。

松岡さんが「メディア」「市場」を定義しているわけではない。各自が定義し、さらにメディアと市場の「AIDA」について思索していく。

言葉のズレの自覚が、共感のはじまり」というnoteにも書いたように、同じ言葉を使っていたとしても、その意味するところは千差万別だ。

メディアも市場も抽象度が非常に高い。市場のなかにメディアが包含されている、その逆、さらには市場とメディアは全く別の概念と捉えている人もいるだろう。

まず、ぼくが考える「メディアと市場」を定義する。

メディアとは何か?

メディアというと、本やCDなどの「記憶媒体」とテレビやインターネットなどの「情報伝達媒体」があるが、大きく捉えると、メディアとは情報の「仲介ぶつ」、「媒体」だ。

そういう意味では、生物が持つ細胞やDNAすらもメディアと言える。DNAには、遺伝子情報が書き込まれている。DNAがメディアとなり、遺伝子情報が伝えられると表現できる。

言葉すらも、メディアといってもいいだろう。言葉が指し示す情報と言葉に分けることができる。文章やストーリーになって、言葉よりも複雑なことが伝わるようになる。文章やストーリー自体も、メディアと言える。

そのように大きな言葉として、メディアを定義する。市場ですら、情報を交換する場で、メディアと言えるだろう。ぼくは「メディア」の中に「市場」が包含されているところを想像する。

次に市場の定義だ。

有形・無形問わず、交換される場と、ぼくは定義する。物と貨幣だけでなく、物々交換もあるだろう。そこで交換されるものは、すべからく情報化=コンテンツ化されている。

貨幣は、最もわかりすい情報化だが、その貨幣と交換するために、モノもそこに含まれていることが情報化される。たとえば、ぼくが転職市場に出されると「42歳、男性、起業家」といった機能面が情報化される。さらに、どんなバックグラウンドなのかというストーリーという情報として加わることが多い。

現在の市場を見ると、ほとんどの業界でコンテンツ化が起きている。「どんな人が、どんな方法で、どんな想いで作っているのか」など、そのものに含まれている情報を伝えようと、それぞれが工夫を凝らしている。

恋愛系にしろ、ビジネス系にしろ、出会い系のアプリは、人をコンテンツ化した市場だ。自分という人間に含まれている情報を、コンテンツとして上手く置き換えられるかが、いい出会いを生むための肝になる。

市場だから、情報化されてしまうのは避けられない。しかし、愛や相性というものを情報化してやりとりしていいのだろうかと逡巡する人がいるのも共感する。

なぜ逡巡するのか。ここで「AIDA(あいだ)」について考えたい。

「メディア」によって、コンテンツ化されたものが交換される場所が「市場」だと考えた時、その「AIDA(あいだ)」とは何なのか?

ぼくは、空間的な間ではなく、時間的な間を考える。

メディアによってコンテンツ化される時、そこには必ず、こぼれおちる物が存在する。ごほれおちるものが、間(あいだ)に漂い続ける。

自分が感じていることの全てを正確に言葉に置き換えることはできない。言葉にできない気持ちというのは確実にあって、それを少しでも他者と共有しようと試みた手段が「ストーリー」だ。細胞をどんなに分析しても、その人の魂のあり方まではわからないように、メディアを通じて伝えられる情報には限界がある。

しかし、ストーリーからもごほれおちる、余白がある。その余白と間は同じものだ。マッチングサービスの中で、コンテンツ化された人間には、間、余白がない。そのことが、ぼくたちを苛立たせ、不安にさせる。

メディアからこぼれ落ちてしまい、市場に並んでいないものを、どうやって感じとるのか。その時に感じとった言葉にもできない何か、それが「メディアと市場のAIDA」だろう。

メディアは情報を端的にわかりやすく伝えるという特性から、文字や映像など、聴覚に訴えかけるものがほとんどだ。「目利き」という言葉があるように、市場で並んでいるコンテンツの多くが、目で見える情報から、その価値を測られる。

そこからこぼれ落ちてしまうものを感じるとるには、全身の五感で感じるとる力を鍛えないといけない。身体感覚を拡張し、他者の身体の声を聴けるようにならなくていけない。

今、ぼくが興味を持っているヨガや瞑想は五感を鍛える手段であり、こぼれ落ちてしまったものを拾おうとしている行為である。また、『観察力の鍛え方』で書いた観察力とは、そのこぼれ落ちてしまったものを感じ取ろうとする力のことだ。

「メディアと市場のAIDA」とは、ぼくがここ数年、考えてきたことを深化させる手助けしてくれる概念だった。これは必然なのか、偶然なのか。


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