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“見守る”と”放置”の違いとは何か。

「人を育てるとは、期待しないこと」

以前、このタイトルのnoteを書いた。ぼくは、誰かを自分の望む方向に導きたくて組織を作っているのでない。一緒にやっているクリエーターも、コルクのメンバーも、自分の子供たちも、「自分にとっての幸せは何か」を自分で考えられる人になってほしいと思っている。

唯一、ぼくが望んでいる方向は「自立」だ。そして、相手に期待することは、その思考法に逆行する行為だと考え出してる。

こちらから「こうしてほしい」「ああしてほしい」という発言は言わないし、態度でも示さない。ただただ相手を信頼して見守る。相手は、自分の時間軸で変化していく。ぼくの時間軸ではない。

期待を手放し、相手を信頼し、見守る。

言うは易しで、実際のぼくがそのように振る舞えているか、首をかしげる人は、周りにたくさんいる気がする。

この「見守る」がすごくうまくて、真似たいと感じる出来事があった。

ぼくの小学3年生の次男が通っている「きのくに子どもの村学園」の先生だ。

北九州にあるこの学校は1学年の定員が12名の小さな学校で、生徒はみんな寄宿舎で暮らしていて、休日だけ自宅に帰ってくる。うちの息子は今年9月から、この学校に編入した。

ここでは、自己決定・個性化・体験学習を重視していて、子どもたちが様々なことを自分たちで決めて、体験を通じて学んでいく。

次男がこの学校で暮らしはじめて間もないが、土日に帰ってくる息子の姿や息子から聞く学校の話を聞いて、驚くことが多い。

ある週、自宅に帰ってきた息子は手に大きな火傷の跡をつくっていた。学校で天ぷらをつくっていた時に、油が跳ねて火傷をしたらしい。

詳しく話を聞くと、面白いことがわかってきた。まず、普通の学校だと、家庭科で天ぷらを作るとなると、クラスみんなでやると思う。でも、息子はふたりで天ぷらづくりをやっていたらしい。「天ぷらをつくりたい人?」と先生が聞いた時に、手を挙げた人が2人だったからだ。ここでは、生徒自身の「やりたいかどうか」が何よりも優先される。

そして、天ぷらの作り方を一切教えない。普通は材料や手順などを教えてから実習に取り組むと思うが、そういう正解を教えない。そもそも、完成形である天ぷらについても教えない。その学校はインターネットが使えない環境なので、ウェブから正解を調べることもできない。

そのため、自分たちの記憶を頼りに、「天ぷらって、どんな感じだったっけ?」と考えて、調理に取り組んでいく。だから、衣がつかないことに相当苦労したそうで、食べ物の表面に小さい傷をいっぱいつけてみたりと、色々と試したらしい。

さらに、よくよく話を聞いていくと、息子たちが作ったものは天ぷらではなくて、どう考えても唐揚げだった。あとから、それを知った息子は、妻に天ぷらの作り方を熱心に聞いていた。

自宅に帰ってきたタイミングで、自分が作ってきたものが、天ぷらではないことに初めて気づく。作り方だけでなく、完成したものに対して「それは天ぷらじゃないよ」とあえて伝えない。

失敗かどうかを判断するのは、あくまで自分自身。
見守るが、とんでもなく徹底されていると感じた瞬間だ。

普通の学校だと、子どもの調理で火傷しないように、先生たちが先回りして子供たちに色々と細かい指示を与えると思う。安全を担保できる反面、どうしても授業が作業的になる。だが、ここでは火傷するリスクより、自ら考えて学ぶことが優先されている。

別の週では、息子が火傷した手とは反対の手に傷をつけて帰ってきた。今度は、ピーラーで手の肉をはいでしまったらしい。こういうことがあると、子どもがピーラーを使うことを禁止とする学校も少なくないと思うが、ここではそういうことはしない。

多少の失敗や痛い思いをした方が、子どもの学びのためになるという教育方針が貫かれているのだ。いまの社会では、学校の授業で子供が怪我したら大きな問題になりやすく、一般的な学校でこういう方針は取りづらい。ここは、保護者側と学校側で方針に合意が取れているから、こういった環境で子どもを育てることができるのだろう。

今回紹介したエピソードを聞くと、学校が子どもを全く構ってなくて、「放置」しているように見えるかもしれない。でも、そんなことはない。子どもが本当に危ないことをしないように、見守ってくれている。

先生に話を聞くと、それぞれの生徒がどんなことに興味をもっていて、体調は今どんな具合なのかを、先生はかなりよく知っている。しっかりと見守ったうえで、自由にさせてくれている。

息子の学校での話を聞くたびに、「これが見守るということなのか」と、ぼく自身、すごく学びになっている。

そして、自分自身を振り返ってみると、こんな風に見守ることはできていないと感じてしまう。自分の責任として、相手の役に立たないといけないと思ってしまって、何か価値のあることをして貢献しようと考えてしまう。貢献したいと思うと、その貢献に応えて欲しくて期待してしまう。

以前、「どうやって、自分の存在感をなくすのか?」というnoteも書いたが、他者の「する」を邪魔しないようにするために、「しない」で「いる」が重要なのだ。

「いる」「見守る」を実践する道は、奥が深いと改めて感じる。


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