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どこにも心を留めず、見るともなく、全体を見る

「一枚の葉にとらわれては木は見えん。
 一本の樹にとらわれては森は見えん。
 どこにも心を留めず、見るともなく、全体を見る
 それがどうやら……『見る』ということだ」

これは、『バガボンド』で沢庵和尚が武蔵に語りかけた言葉だ。その言葉の意味するところの深さが、今になって改めて胸に響いている。

仏教には「色即是空」という言葉がある。

すべての形あるもの、物質的なものは、その本質において実体がなく、「空(くう)」である。だからこそ、何にも執着する必要はない、という考え方だ。

この世のすべては移ろい続ける。だから「絶対」など存在しない。あらゆる物事は関係性の中でのみ、そう感じられるに過ぎない。すべては常に変化し続けるため、固定された絶対は存在しない。ゆえに諸行無常だ。

こうした仏教的な考え方は、ここ数年、ぼくに大きな影響を与えてきた。以前投稿した『絶対と見えて“不確か”な、概念の囚われに気づく』というnoteでも、そのことについて触れた。

しかし、そんなぼくの仏教観を覆す一冊の本と出会った。ベトナム出身の禅僧、ティク・ナット・ハンが書いた般若心経の解説書だ。

ぼくの今までの理解は、限りなく虚無主義に近いものだったようだ。虚無主義でありながら、どう楽しく生きるのか。それをなんとか工夫していた。

色即是空は般若心経で登場する言葉だが、ティク・ナット・ハンは般若心境が色々な国の言葉に翻訳されるなかで、空の概念が誤解を招きやすいと指摘する。まさに、ぼくがしている誤解を解き明かしてくれる本だった。

すべての存在は、空であるとは何か。

それは、実態が無いことを意味するのではない。空の概念を、「無」「無いこと」「非存在」などと等しいものだと僕も含めて見なしてしまう人が多いが、それは二元的な西洋哲学の捉え方であり、仏教が意味するところの空とは、そういうものではない。

すべての形あるものは、それ単体では存在しない。すべてのものは他のものがなければ存在できず、さまざまなものがつながり合っているからこそ、その存在が成り立っている。つまり、存在しないのではなく、他との関係によって存在している。他と一緒にしか存在できないことを、空という。

たとえば、木と紙の関係を考えてみる。紙は木から作られるが、木が育つためには、土や水、太陽の光が必要だ。そして、その土は動物の死骸や植物が分解されてできていく。つまり、紙一枚が存在するには、木だけでなく土や水、動物、太陽など、実に多種多様なものが関わっている。

空とは、単に実体が無いという意味ではなく、ひとつの存在の中にさまざまな「つながり」が含まれているということだ。そして、そのつながりをすべて理解しようとしない限り、その対象の本質を捉えることはできない。

以前に『次に書く本のテーマは、間』というnoteを投稿したが、ティク・ナット・ハンが説く空の考え方は、ぼくが「間(あいだ)」について考えてきたことと通じる。

例えば、「人間とは何か」を考える時、特定の個人だけを見ていては、人間そのものを理解することはできない。木を見て、森全体を理解しようとするのと同じだ。人と人との間には何があるのか。人間と自然との間には何があるのか。そんな風に対象を取り巻く関係性を俯瞰し、その間に存在するものを捉えようとしなければ、その本質にはたどり着けない。

ティク・ナット・ハンの本に出会い、自分が考えてきた「間」というテーマは、「空」について考えることと等しいことであると気づかされた。

“どこにも心を留めず、見るともなく、全体を見る。”

まさに沢庵和尚の言葉は、ぼくが辿り着きたい極地を端的に表している言葉だと感じる。「見る」とは何かという、ぼくの考えが更新された。


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『宇宙兄弟』『ドラゴン桜』などのマンガ・小説の編集者でありながら、ベンチャー起業の経営者でもあり、3人の息子の父親でもあるコルク代表・佐渡…

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