“物語の力”は運命をも左右する。それを実感した出来事
先月、はじめて大腸内視鏡検査を受けた。
40代ともなると、健康への意識は自然と高まってくる。だが、大腸内視鏡検査については、そろそろ受けておくべきだろうと思いつつも、「準備が大変そうだし、まだいいか」と先送りにしてきた。そんな自分がついに行動に踏み切ったのは、あるきっかけがあったからだ。
平野啓一郎の最新短編集『富士山』に収められた短編『息吹』。この作品が、自分を揺り動かしたのだ。
「あり得たかもしれない幾つもの人生の中で、何故、今のこの人生なのか?」
これが本の帯につけられたキャッチコピーだ。運や偶然といった「たまたま」が、いかに人生に影響を及ぼすのか。この短編には、人生における偶然性をテーマにした5篇が収められている。
『息吹』では、「たまたま」に遭遇した世界と遭遇しなかった世界が巧妙に織り交ぜられ、パラレルワールドの物語が展開されていく。
とある夏の日、中学受験を控えた息子を模試会場に迎えに行った主人公は、時間を勘違いし、一時間はやく会場に着いてしまう。時間を持て余した主人公は、かき氷屋に入ろうとするものの満席で、仕方なく10数年ぶりに訪れたマクドナルドで、隣席の客が交わす大腸内視鏡検査に関する会話をたまたま耳にする。その会話をきっかけに、実際に検査を受けてみたところ、初期の大腸がんが発見され、無事に手術を終えることになる。
早期発見のおかげで大事には至らなかったものの、「たまたま」興味を抱いて検査を受けたかどうかで、自分の人生が大きく変わっていたかもしれない。その事実に主人公は大きな衝撃を受ける。
この出来事をきっかけに、主人公は「もし、かき氷屋に空席があったなら」という仮想に取り憑かれる。そして、実際にそのお店特製のかき氷を食べていた感覚を、まるで現実の出来事のように何度も思い返していく。そして、今自分がいる世界は、大腸内視鏡検査を受けていない自分が作り出したパラレルワールドなのではないか、という思いに囚われていく。
やがて主人公は、検査を受けなかった側の世界を行き来するようになる。そこにいるのは、検査を受けなかった自分の姿だ。その自分は、検査を受けなかったことを深く後悔し、息子や妻を残して死んでいく運命に強い未練を抱いている。その後悔や苦悩が、主人公の心に重くのしかかっていく。
がん細胞が自分の中で静かに、しかし確実に育っていることを知らないまま、日常を過ごしてきたもう一人の自分。「過去の自分に、なんとかして検査の重要性を伝えたい」。その願いがパラレルワールドを作り出し、今の自分がいる世界を形作っているのではないか。そうした確信を強めていく。
この『息吹』を読み進めるにつれ、主人公と自分を緩やかに重ねた。そして、面倒だけど念のため、大腸内視鏡検査の予約をした。
検査を受けた結果、1.2cmのポリープが見つかった。
医師によると、検査でポリープが発見されるのは珍しいことではないが、これほどのサイズになると、数年放置していた場合は危険な状態になる可能性があるという。
検査を受けたことがある人ならわかると思うが、検査そのものはあっという間に終わる。麻酔で完全に意識がないなかで進むため、いつ検査が始まり、いつ切除が行われたのかさえわからない。それだけに、医師から結果を聞かされたときは、驚きと戸惑いが入り混じった気持ちだった。
「もし、このタイミングで『富士山』を読んでいなかったら、ぼくの人生はどうなっていたんだろう?」
検査後、この思いがずっと頭を離れなかった。そもそも、平野さんがこの作品を書いていなかったら? いくつもの「もしも」が次々と浮かぶ。
平野さんによれば、この『息吹』という作品は、自身の実体験が元になっているという。平野さんもまた、大腸内視鏡検査の話を偶然耳にし、検査を受けたところ大きなポリープが見つかったそうだ。
そして、医師から「このまま放置していたら、数年後には大腸がんになっていましたよ」と告げられた瞬間、50代初めにがんが見つかった自分の姿が、妙に生々しく想像できたという。それがきっかけで、小説家としてのイマジネーションが湧き、この物語が生まれたそうだ。
平野さんが大腸内視鏡検査の話を「たまたま」耳にしなかったら、どうなっていただろう。そして、その「たまたま」を与えた人も、また別の「たまたま」がきっかけだったのかもしれない。こうした「たまたま」のリレーはどこまで続くのだろうか。
同時に、「物語の力」というものを改めて実感した。
これまでにも大腸内視鏡検査の重要性について耳にする機会はあった。それでも、ただ情報として受け取るだけで、心が動くことはなかった。だが今回、主人公の後悔の念が痛いほど胸に迫り、その気持ちがまるで自分のもののように感じられた。その結果、ついに行動に移すことができたのだ。
コルクでは「物語の力で、一人一人の世界を変える」をミッションに掲げているが、今回、まさに物語の力によって、ぼくの運命は大きく変えられた。
以前投稿した『自分を知る手掛かりとして、物語を読み返す』というnoteにも詳しく書いたが、30代のぼくのあり方に大きな影響を与えてくれたのは、『空白を満たしなさい』をはじめとする平野作品だった。平野作品を通じて出会った分人主義の概念は、ぼくの世界の見え方を一変させた。
他者を愛するとは何か。自分とは何者なのか。これまで漠然と感じていた問いに対する捉え方がガラリと変わり、それまで抱いていた孤独感も別の形を帯びていった。
そんなふうに、平野さんが紡ぎ出す物語の力によって、これまで幾度となくぼくの人生は変わってきた。そして今回、『息吹』という物語を通じて、また新たな一歩が刻まれたのだ。
平野さんの小説家としての才能に改めて感服するとともに、物語が人の運命をも左右し得る力を持つことを再認識した。そして、そんな力を宿す物語を、コルクの作家たちと共に生み出していきたい。その思いを新たにした。
ここから先は
コルク佐渡島の『好きのおすそわけ』
『宇宙兄弟』『ドラゴン桜』などのマンガ・小説の編集者でありながら、ベンチャー起業の経営者でもあり、3人の息子の父親でもあるコルク代表・佐渡…
購入&サポート、いつもありがとうございます!すごく嬉しいです。 サポートいただいた分を使って、僕も他の人のよかった記事にどんどんサポート返しをしています!